花蕾の滴り-7
「明日の朝、俺と一緒にここを出よう」
行為が済んだ後で少女に自分の気持ちを打ち明けた。こんな狭い鳥籠の中にいたのでは、一生、自由に羽ばたくことなどできないだろうと思ったからだ。
でも少女は首を縦には振らなかった。
「十二歳の時から、私はあの人に……父にすべてを捧げてきました」
「まさか。なんてことを……」
「でもしょうがないんです。父はそんなふうにしか家族を愛せない、不器用な人なので」
「君はほんとうにそれで良いのか? 父親の子どもを妊娠したらどうするつもりなんだ」
「おじさま、どうか私のことは忘れてください。幻の桜のことも、それからこの家での出来事も」
そして彼女は憂いを帯びた眼差しをそっと伏せ、まるで人生の幕を引くかのようにアトリエから姿を消したのだった。
置き去りにされた部屋であらためて裸婦の画を観た時、そこには微笑を浮かべる少女のありのままの姿があった。
タイトルには「春の妖精」とある。春のおとずれと共に花を咲かせる桜のイメージと重なり、妙に納得してしまう自分がいた。
夜明け前にはここを出ようと思った。おそらく彼らにとってこの家こそが最後の楽園なのだ。誰にも干渉されず、父娘の性愛を育んでいける唯一の場所なのだろう。
いや、あまり深く考えるのはよそう──そうして鈍い頭痛をこらえるように立ち上がった直後、またしても辺りに薄い霧が立ち込めてきた。あの幻の桜に出会った時と同じように、視界が真っ白に塗り潰されて徐々に意識が遠退いていく。
「煙か?」
異変に気付いた時にはもう手遅れだった。めらめらと燃える赤い炎が行く手を塞ぎ、充満した煙を吸ったせいで思うように体を動かせない。それに、家の中にはあの子もいるはずである。
「……」
少女の名を呼んだつもりが、まったく声にならなかった。火はもうすぐそこまで迫っているというのに。早く逃げなければ……綾女ちゃん……早くここから……。
そこで意識が完全に途絶えた……と思った。
「おじさま、目を覚まして、おじさま……」
どこまでも沈んでいく意識の向こう側から少女の声がする。どうやら無事に助かったようだ。でもどうやってあの火の海から逃げ出せたのか、前後の記憶が欠落して状況が飲み込めない。
「おじさま、しっかりして……」
「綾女ちゃん……」
少女の名を口にして目を開けると、見覚えのある風景が眼前に広がっていた。家の中ではない。ここは……そうだ、車の中だ。幻の桜を見付けたあの場所だ。するとさっきまでの出来事はすべて夢だったのか。
すっきりしないまま運転席側のドアを開け、吸い寄せられるように桜の木のそばまで歩み寄る。
「満開だ……」
圧倒的な美しさで幻の桜の木はそこに立っていた。十二単(じゅうにひとえ)を召した女性のように華やかな佇まいで、そよぐ風に花びらを揺らしながら散り果てる時をじっと待っている──そんなふうに思えてならなかった。
後日、地元の人から興味深い話が聞けた。数年前に山奥の一軒家が全焼するという火事があり、大変な騒ぎになったという。当時、その家には父親と娘の二人が住んでおり、火事に巻き込まれたのではないかとの情報もあったのだが、消防や警察による懸命な捜索の甲斐もなく、未だ二人の行方はわからないままらしい。
幻の桜が見つかったのも、ちょうどその頃だったような気がすると誰もが口を揃えていたから、この二つには何らかの因果関係があるとしか思えなかった。
その足でふたたび幻の桜があった場所をおとずれてみると、予想通りというべきか、そこには桜の木はおろか抜け道すら見当たらなかった。あれだけ鮮明に記憶していた少女の体温や息遣いも、今にしてみればすべてが幻だったような気がするから不思議だ。
花の命は短い。春が来て、桜が開花するたびにあの少女の面影を思い出し、また見知らぬ土地に一人旅をしてみたくなるかもしれない。
そこに新たな出会いがあることを夢見て。