2 順子-15
「良介がそこまで考えていたら大変だよ」
「私が大学生の時に文学の教授が吉田健一という英米文学者だったんだ。戦後長く首相を務めた吉田茂の息子さんだが、私は彼の講義を受けていた。で、その講義の試験に『サルトルは、文学は飢えた子供を前にして無力であると言ったが、それについてどう思うか』という問題が出たんだがね。良介君どう思う?」
「さあー。文学は食べ物では無いですから当たり前だと思います」
「うん。そのとおりだね。でもサルトルというのは文学者でもあり、哲学者でもあって歴史に残るような大人物なんだ。そんな人が文学は食べ物だと誤解する筈が無いよね」
「そうですね」
「私はその時どんな解答を書いたかもう記憶に無いんだけども、今でもその問題だけは覚えていてね。時々ふっと頭に浮かんだりするんだ。良介君もこのサルトルの言葉を覚えておいて、何故彼がそんなことを言ったのかを、勉強に疲れた時とか暇なときに考えてみてくれないかな。文学が飢えた子供に対して何をすることが出来るのだろうか、又そもそも何かをしてやらないといけないのだろうか、文学と小説というのは同じなのか違うのかとかいろいろな疑問が湧いてきていい頭の体操になるんだ」
「はい。暇な時はいっぱいありますから」
「勉強に疲れた時っていうのは無いんだろう?」
「それもいっぱいある。すぐ疲れちゃうから」
「本当に、まあ」
「何?」
「あいた口が塞がらない」
「今度、口紅に瞬間接着剤を混ぜておいてやろうか?」
「そんなことしたら、その口紅良介に塗ってやるから」
「僕は男だからいい」
「どうも文化祭を境にして良介は急に減らず口になった」
「小山君、文化祭を境にして急に大人になったような気がする。前は可愛い弟みたいな感じだったし、悪く言うと裕子のペットみたいだったけど、この頃急に男らしくなったように感じる」
「そうかな。自分では分からないけど」
「だって前は私と2人きりになるのが苦手で避けていたじゃない。私だけじゃなくて裕子は別にして女の子と2人きりになったことなんて無いんじゃないの?」
「うん、前は女の子と付き合ったこと無かったから」
「その裕子という子はどういう子なんだね」
「裕子は誰からも好かれているけど誰とも特に親しくしていない変わった子なの。でも文化祭で小山君と組むことになってからもっぱら小山君の保護者みたいになって小山君が誰かにからかわれていると救ってやるし、からかわれそうになると前に立ちはだかって妨げていたっていう感じ」
「ほう。その子も良介君のことが好きなんだね」
「うーん。嫌いでは無いと思うけど特に好きだというんでも無いと思う。いつも妹や弟の世話をしているらしいから、それと同じ感覚で小山君と接していただけだと思うな。だって私が小山君と段々親しくなっていくのを近くで見ていたのに嫉妬したり邪魔したりということは無くて却ってそれを喜んで助けてくれたみたいに感じるの」
「あの子は母性愛が強い子なのよ、きっと。私も文化祭の時に会っただけだけど、そう感じたもの」
「そうなんでしょうね」
「そうか。だけど今のはいい話だな。お母さんのような女の子と付き合って、それから成長して今度は普通に女の子と付き合えるようになったというのは、異性との関係を通じて成長していくという男にとっては理想的な姿だと思うし、そういうことが出来る環境にいるということは素晴らしいことだと思うよ。私らの若い頃は今のように異性関係がオープンでは無かったから精神的な成長が少し歪んだ形で進んだような気がするね。だから私らの年代は皆女性との付き合い方が下手で、恋愛関係はいいんだけど、そうでは無い例えば職場の同僚とか取引先の女性担当者との職業上の関係とか、そういった場合の男女関係がどうもぎこち無いんだな」
「それは、お父さんの時代にはまだ女性の社会進出が進んでいなかったからじゃ無いかしら」
「そう、それも勿論ある。だけど、その以前の学生時代の環境からして今とは違うんだな」
「うちの学校なんか女の子の方が2倍もいるからね」
「羨ましいことだと思うよ。まあ2倍は必要無いんだが、この社会が男と女で成り立っている以上学校だろうと職場だろうとやはり男女同数が望ましい姿だと思うね」
「でもうちは女が2人で男は僕だけ、母さんを入れと女が3人で男が1人なんだ。粕谷のうちは男の兄弟2人で母さんがいないから、男だけ3人の家族なんだ。うまいこと行かないもんだなと思うんだけど、それが社会全体としてみると大体男と女は同じ数になるんでしょ? なんかそれが不思議だと思うなあ」