僕は14角形-36
26
「行けば?」事もなげに綿星は言い切った。
僕が死ぬほど悩んだ答えを、まるで買い物に行くみたいに。
「……だってなあ。確かにいちごの言うとおりだし」
「決断を躊躇うのは男らしくないわよ」
綿星はシャワーを浴びた後で、平気で僕の座った椅子の前のソファーに座って言った。
首に掛けたタオルはあるものの、お椀型の張りのある美しい乳房が剥き出しになっている。それどころか下の方の淡く柔らかそうな煙のような物があるのだが、とりあえず見なかった事にする。
「メールを待っている身にもなってみなさいよ。行くなら行く。断るなら断る。女みたいにうじゃうじゃ迷わない!」って、僕、世間的には女なんだけど。
綿星はかなりスポーティーな白いパンティに足を通しながら、僕に向かってしかめっ面を向けた。
「自分に正直になるだけでしょ。そうであれば罪なんかあっても関係ないのよ」
僕は、iPhoneを取り出すと、メールのアイコンを押して入力した。
RE:映画を觀に行きませんか?
本文:おっけーです。見終わったらどこかで美味しいお酒を飲ませてください。
ちょっと躊躇しつつ、綿星の視線を確かめて送信ボタンを押した。ジェット機の音が綿星の部屋に響く。僕は脱力してバスロープの襟を開いて風を入れた。
綿星はパジャマ姿で無邪気な笑い顔を浮かべた。
「男だね、詩音」
「どういたしまして」で、いいのか俺。
綿星はちょっと思案顔になる。
「一日足りないね。服がないわ」
「今日のワンピでいいよ」
「連チャンで同じワンピ? そりゃデリカシーってものに欠けるわよ。でもなあ、通学の服じゃダサいし、私の服は使い物にならないし。最悪、コサージュとかアレンジするか。それに、前にはなかったピアスがあるから、服なんて霞んじゃうからね」
「そんなにこのガラス玉に力があるのかね」
「あんた、フランシーヌだって自覚が無いのね。今日のラブレター、全部読んだ?」
「いや、二三通だけ」
「良かったわね。間違いなく一割は剃刀が入っているわよ」
僕はびっくりして言った。
「なんで?ラブレターなのに?」
綿星は淫靡に微笑んだ。
「美しいって事は『罪』でもあるのよ。そんな事にも気付かないの?」
夜中に突然目覚めてしまった。またもや淫夢。夢の中で刻まれた身体中のキスマークが無いのが驚きだった。
階下でざわめく音がする。豚の毛が麻布を擦りつけるもはや聞き慣れた音だ。僕はバスロープのまま、階段を下りると、彼女は大きなカンバスに絵の具を叩きつけていた。
「来ると思っていたわ、天羽君」
「『シオ』でいいですよ、寮母さん」
彼女は筆を置くと、鋭い眼で詩音を見つめた、
「じゃあ私もこれからは『衣良』でいいわよ。詩音。『寮母さん』なんていうの、行きがかり上の事でね。ここの一階はただの私のアトリエ。一杯飲む?」
「喜んで」
衣良は冷凍庫から一本の細い瓶を取り出し、それを二つのショットグラスに注いだ。
「ポーランドのウオッカでね、『ズブロッカ』っていうの。香草が一本入っていてね、香り付けになっているわ」
「バイソングラスですね。知ってます」
衣良は怪訝な顔をして詩音を凝視した。
「兄さんからも聞いたけど、あなた、何でも詳しいのね」
僕は首を振って笑った。
「全然詳しくないんですよ。ただ──ちょっとした特技というか──があるだけで」
「その特技って何なの?」
僕はズブロッカを一気飲みしてため息をついた。
「忘れられないんです」
衣良のこめかみに皺が寄る。「どういう事?」
「呪いみたいなものです。つまり、僕は一回読んだり、見たり、聞いたりした事を全部忘れる事が出来ないんです。よく言えば才能かも知れないけど、実際は病気です。睡眠障害もその一つで、要するに『考えることをやめられない』から薬に頼るしか出来ないんです」
衣良はちょっと考え込んでから言った。
「私も、二人ばかり会ったことがあるわ。アイルランドとニューヨークで」
詩音は思わず身を乗り出した。
「居るんですか? 僕みたいのが?」
「嬉しきゃないわよ」衣良はグラスを叩きつけた。
「二人とも精神が崩壊していたわ。いわゆる『白痴の天才』ってやつ」
詩音はゆっくりとウオッカを喉に流し込んだ。
「なるほどね」