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魚精
【その他 官能小説】

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魚精-1

(1)

 川には表情があり、色がある。特に上流域の様相は複雑でにおいにも変化がある。その土地の風土、成り立ちによりそれぞれ特徴的な流れをつくりだしているのである。
 長い年月の間、人は自然とかかわってきた。自然の恵みに感謝し、様々な現象に対して畏敬の念を抱き、歴史を刻んできた。……
 
 安田俊二がE川を知ったのは2年前のことである。
イワナ、ヤマメ釣りの穴場として釣り雑誌に載っていた川で、いつかは行きたいと思っていたが、なかなか決断できないでいた釣り場だった。何しろ東京から300キロ以上、さらに山の中腹まで車で行かなければならない。行動を起こすまで2年を要した。友人の秋元を誘ってようやく念願の釣行となった。
 近くに温泉場がある。
「夜は獲物で一杯やろうぜ」
「イワナの骨酒、ヤマメの塩焼き。たまらないな」
半分は旅行気分であった。

 その日、なぜか安田にはアタリがなかった。ポイントを探しながら釣り上がっていくのだが、対岸の秋元が次々と釣り上げているのにさっぱり反応がない。
「おーい。また釣れたぞ。いい型だ」 
釣りに関しては安田のほうがキャリアがある。
「すごいな。調子いいじゃないか」
初めのうちは笑っていたが、
(くそ……)
内心面白くなかった。
 
 釣れないので先へ先へとポイントを変えて登っていった。焦りが仕掛けの振り込みにも表れて雑になり、枝に引っ掛けたり、根掛かりでハリスを切ったり、しまいには嫌気がさしてしまった。気が付くと秋元の姿が見えないところまで来てしまっていた。
(そろそろ引き上げよう……)
こんな日もある。……疲れを感じながら下って行った。

 ふと、本流に注ぎ込む小さな流れが目に入った。登っている時は気づかなかった沢である。
 なぜその沢に踏み入る気なったのか、わからない。水量も少なく、小魚くらいしか棲んでいない細々とした流れである。強いていうなら、釣り人が誰も入ったことのない雰囲気に惹かれたからかもしれない。
(様子を見てみるか)  
 しかし辿り始めて、
(これはダメだな……)
足首にも満たない流れが続いた。ふだんなら早々に引き返すところだが、なぜか、足は止まらなかった。
 しばらく木々の枝が重なる沢を登り、その淵を見つけた時の興奮は一瞬体が硬直するほどだった。
(これはいいぞ!)
さほど大きくはないが、細い流れからは予測もつかない青く深い淵があらわれた。
 周囲の岩場に踏み跡はない。長い間人が入っていないと思われた。淵に注ぎ込む水の流れだけが聞こえていた。この上流に湧水があるのかもしれない。
(大物がいる……)
期待を含めた予感のようなものだった。

 そっと近づき、覗き込んで、足が竦んだ。とてつもない巨大な魚影が見えたのである。
(すごい!)
二尺はある。そう思えた。
(淵の主だ。化け物級だ)
 
 慌てた。道具箱を落として音を立て、竿先を水面に叩いた。大物になるほど警戒心が強い。
 魚影は消えていた。
(だめか……)
悔やんだが取り敢えず竿を入れた。息をひそめて待った。が、やはり底知れない青い淵にあの影は現れなかった。
 諦めて竿を引いた時、アタリがあった。
(小さい)
グルルと伝わる魚信でわかった。
 案の定、あがったヤマメは手応え通りの大きさだった。しかしその魚体の鮮やかな色彩に安田は目を瞠った。
(美しい……)
ヤマメは見慣れていたが、目映いばかりの紋様なのだった。
(まるで宝石だ)
同じ魚種でも棲む川によって微妙に色合いが違うことがある。
 それにしても美しく、それは初々しいばかりのヤマメであった。跳ねる魚をそっとリリースしたのはサイズが小さいこともあったが、あまりに可憐に思えたからだった。
(近々きっとここへ……)
秘密の場所だ。必ずあの大物を釣り上げてやる。……

 雲行きが怪しくなったと思ったら雨になり、安田は帰り道を急いだ。車を置いてある場所までまだだいぶある。
(登りすぎたな)
秋元に電話を掛けたが圏外になっていた。
(遅れても待ってるだろう)
とにかく歩くしかない。

 雨脚が強くなって本降りになった頃、
(迷った)と思った。
沢に沿って登ったはずなのに流れが消えた。しかも逆に登っていることに気づいた。
(動かないほうがいいかもしれない)
思いながらも気が急いて足が止まらない。まだ4時前だが暗雲に被われた山は薄暗くなっていた。

 白い雨の中に一軒の家が見えた時、安田はほっとした。
(遭難は避けられる)
家なのか小屋なのかわからない。とにかく助かったと思った。

 近づいてみると『家』である。それも比較的新しい。建物は小さいが洋風の雰囲気を持った別荘のような家であった。改めて安堵したのは窓から明かりが洩れていたことだった。しかし、
(こんなところに?)
道らしい道もない山の中である。が、考えている余裕はなかった。全身ずぶぬれである。

「すみません」
声をかけ、ドアを叩いた。返事がない。さらに強く叩いたが物音すら聞こえない。
 カギはかかっていない。迷ったが、中にはいることにした。
「雨宿りさせてください」
人の気配は感じられなかった。
(玄関だけ借りよう)
体が冷えてきて疲れが重く感じてきていた。

 
 

   



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