魚精-3
(3)
安田は駆けるように山を下った。担いでいる釣り道具がガタガタと揺れる。
(夢だったのか?……)
何かに追われるように足が速まっていく。
(いや、夢ではない)
朝、目覚めると少女の姿は見えなかった。呼びかけても返事はない。
家の中の佇まいは昨夜と変わりがないのに、何か違和感があった。起き抜けのタバコを吸いながら、紫煙の滞留が却って頭を稼働させた。
(人の気配がない……)
不気味に想ったと同時に、
(そうだ)
秋元のことを思い出した。
どうしているだろう。約束の時間を過ぎて一晩経っている。宿泊予定の旅館に行っているのか。何かあったかと警察に通報してしまったかもしれない。急いで支度をして『家』を出たのだった。
少女の言葉が甦ってきた。
「もう淵には来ないでくださいね。あそこは神の淵なんです」
少女と何度体を重ねただろう。息も絶え絶えのか細い声が耳に残っていた。
「私は、魚です。あなたに助けられた魚の精です」
その時、少女にのめり込んでいた安田に正常な思考力はなかった。ただ、悲しげに訴える少女の言葉は彼の心に食い入るように残っていたということだった。
「神の淵は私たちの世界です」
「あなたに捧げる私の体は、命です」……
見覚えのある場所に来て、立ち止まった。あの淵に続く道だった。
(あの、大物……)
だが、そんな時間はない。安田はふたたび駆け下りた。
(もうすぐだ)
道がなだらかになり、車を止めていた場所が近づいた時、安田は足を止めた。
(おかしい……)
思ったのである。
朝早くあの『家』を出てきた。それから1時間も経っていない……それなのに、今……。空模様、見渡してみると夕方である。携帯を見ると時刻は4時半。
(どうなってるんだ?……)
戸惑いを抱きながら開けた空き地に出た。
「安田!」
(秋元……)
「遅かったな。もしかして、大物上げたとか?」
「待っててくれたのか」
「そりゃそうだろう。どうだ、釣れたか?」
「いや、ぼうずだ」
「ま、そういう時もあるよ。俺、八匹。まだピンピンしてるよ。宿で捌いてもらおう」
秋元は車に乗り込み、
「いまから行けばちょうどいい時間だな。温泉入って一杯。楽しみだな」
道々、会話の中で聞き出したいくつかの疑問は安田を混迷の奥底に沈めていった。
「俺、どのくらい遅れた?」
「3、40分くらいか」
「一晩待ってたんじゃないよな?」
「一晩?何言ってんだ」
雨は降らなかったという。
「まったく?」
「ああ。ずっといい天気だ」
「土砂降りだったような気がして……」
「滝つぼにでも落ちたんじゃないか?第一、濡れてないじゃないか」
それは、昨日のことだと言おうとして口を噤んだ。
川に濁りはなく、道も乾いていた。
(雨は降っていない……)
(夢……)
とは思えない。
(夢であるはずがない……)
たしかに時間の経過は説明がつかない。しかし、理屈ではない。安田の体には実感が残っていた。
(少女の肌……濡れた唇……)
そして何よりも、膣に埋め込んだペニスの圧迫感。
(今でもその感触がある……)
思い出してペニスはむくむくと勃起した。
その夜、安田はなかなか寝付けなかった。酒の酔いがまわっているのに頭が冴えて、薄暗がりの天井を見つめながら『あの出来事』を繰り返し思い出していた。
誰に話しても信じてはくれないだろう。……少女の美しい体が闇に仄白く浮かんでくる。
(ああ、その汚れなき蕾を……)
俺は裂いたのだ。まだ小さな散った花びらを赤く染めたのだ。
ペニスが漲り、安田は握りしめた。
(私は魚……)
そう言った。
(私を助けてくれた……)
魚の精……。
安田がたどり着いた考えは妄想の世界であった。そこに沈み込まなければ自分の体験を理解することが出来なかった。
(少女はヤマメだ)
自分が釣ってリリースした小さなヤマメだ。少女は魚の精……。あの淵は『神の淵』というのだろう。魚の精が宿っているのだ。あのヤマメは少女となって身を捧げた。
(大切な処女を俺に……)
何のために?……助けた命の恩返し……。そして、
(もう来ないでください……)
神の淵を守るために。……
あの淵は魚の精が密かに棲みついている場所なのではないか。そこに人が近づいてほしくない。釣り人は来ないでほしい。あそこは『彼ら』の楽園なのにちがいない。
突拍子もない発想であるにもかかわらず安田はたしかな実存として心に秘めた。
あの少女が忘れられない。……
神秘なまでの美しさ、見たことはない。
(やはり、魚の精だ……)
空想も現実もないまぜになってそのことばかりが頭を巡っていた。安田の心を占めたのは、
(抱きたい……)
もう一度、溶けてしまいそうな少女を抱きたい。そのことばかりだった。