前篇-3
少しずつ母への想いは募っていった。
母の事を思い浮かべるだけでなく母がさっきまで座っていた座布団や便座まで触ったり頬をすりよせたりしていた。
止まれなくなっていった私は母が買い物に出かけたりすると母がよくいる居間や台所で自慰に耽るようになった。
その方がより母に近くなれるような気がしたのだ。
母は当時そんな私の微妙な変化に気づいていたのかはわからない。
しかし思い焦がれる相手が実の母親であるという自分は同級生や先輩に惹かれる友達とは違うんだ、ということは既にわかっていた。
疎外感というほどではないが、この想いは誰にも言ってはいけない事なのだと本能的にはわかっていた。
当然ながら母親は私の母親であり、息子である私とひとつ屋根の下で暮らしていた。
すぐ近くにいるのに決して手を伸ばせない自分の状況は身を焼かれるようだった。
いつしか父と母の夫婦生活は私を苦しめるようになった。
二人の夫婦生活の間隔はせいぜい毎週末だったが、それでも無くなることはなかった記憶がある。
母が父に抱かれている事実を思い知らされることは初めて盗み聞きしたあの夜と変わらない喪失感をいつも味わされた。
母は永久に自分のモノには出来ないのだと父と母の夫婦生活によって思い知らされるようだった。
当時母は30代から40代に入るころでその魅力はますます女性として成熟して落ち着いた輝きを増していくようにみえた。
今思い起こしても私が幼かったころの若い母よりもある程度年齢を重ねてからの方が魅力を増していったように思える。
この当時の母が女性としての魅力の頂点に向かってた時期なのは間違いない。
そんな手を伸ばせないお預けの状態が崩れ始めたのは中学三年生の時だった。
その時私が所属していた陸上部の最後の大会が近付いてきた6月頃だ。
陸上部といっても短距離とか高跳びとかそんな華のある種目ではなく、小柄ながら力があったので砲丸投げだった。
最後の大会だったので母も試合には応援に来てくれるといった。
恋い焦がれていたとはいえ中学三年生にもなって親が見に来るのは友達の手前恥ずかしかったが、来なくていいとも言えなかった。
大会を目前に毎日遅くまで練習をするようになったため、部員の保護者が当番制で夜食や生徒の送迎を手伝うことになった。
その日は母の当番の夜だった。
母の運転する車で他の部員を家まで送っていったあとで最後に母と車内で二人きりになった。
学区内なのでそれほど遠い道のりでもないが最後に送った生徒の家が少し遠かった。
母はハンドルを握っていた。
初夏でも時計は9時半を回っていたのでもう夜の暗さだった。
私は魅入られたように母の横顔を見つめていた。
母はふと私の様子がおかしいことに気づいたようだった。
目が合ってもその奥の想いは私はとても言いだせずに黙ってしまった。
私は何も言えない自分をみじめに思えたが、他にどうすることも出来なかった。
随分後になって知ったが、母は原因こそ分からないもののこの当時の私の何かしらの不安定さを感じ取っていたのだという。
だから受験を控えていることもあるため、一回二人で悩みを聞いてやる必要があると思っていたらしい。