『秘館物語』-13
「………」
館にある志郎のアトリエ。初めて入ったその部屋で、浩志は今まで描いたスケッチ画を父に見せていた。
そのひとつひとつを、それこそ隅々まで凝視する志郎。１枚１枚にじっくりと時間をかけて。
（………）
だから、浩志にとってその時間はとてつもない重圧の時だった。最後の審判を待つ囚人の如く、心臓と肺が苦しい。
そのときも、いつかは終わる。やがて志郎は開いていたスケッチブックを閉じ、瞑想のように両目を閉じると、大きく息を吐いた後にその深い色の瞳で、浩志を射抜いた。
「浩志」
「は、はい」
「綺麗な絵だな」
「！」
「だが、それだけだ」
「っ」
スケッチブックを優しく浩志に戻す。
「私が浩志に教えた言葉を、覚えているな？」
「………己の中にあるカオスを、余さずキャンバスにコスモスとして表現すること」
「そうだ。そして、そのスケッチには、何ひとつ生方浩志という人間のカオスを感じない」
志郎は席を立ち、アトリエの奥に消えると、何かを手にして戻ってきた。
「カオスとは、事象の成り立ちに存在する全て。そして、己の中にある欲望。目にみているもの、自分の中でせめぎあっているもの。それら二つのカオスを自分の中で凝縮させて、キャンバスの上に相対する存在としてのコスモスに変えて表現する。それができたとき、その絵は風景画であろうと人物画であろうと、凄まじいまでの生命力を有する。存在感に名を変えて、な。………易しいことではない」
手にしていたものを、そのまま浩志に手渡す。それは、テレビの中でよく目にする映写機用の大型フィルムだった。
「浩志。ここには、私のカオスが詰まっている」
「え……？」
「まずは、カオスを手に入れるのだ。物事の始まりは、混沌の中から生まれる」
「………」
「生命も、文明も、文化も、その全てが混沌の結晶だ」
「………」
「だからこそ、全ての中にカオスは存在する」
もう一度、志郎は浩志の手の中にあるフィルムを指差した。
「そして、私のカオスはその中にある」
最後に、地下にあるという映写室を浩志に教えて、志郎は話を終えた。
浩志は父に感謝の言葉を残し、アトリエを出た。
「あ」
そこには碧がいた。心配そうな顔をしている。
「碧さん」
「あ、あの。ごめんなさい」
立ち聞きをしていた、というわけでもないだろう。この扉が厚いことを浩志以上に知っている碧のことだ。
「ありがとう。気にしてくれてたんだね」
「はい……」
親子の夕食時の会話は、その場に控えている限り全て碧と望の耳に入る。従って、今まで描いていた浩志の絵が、画家である父にどのような評価を受けるか、碧は心配になったのだろう。
「綺麗な絵とは言ってくれた。でもね、それだけって」
「そんな」
「父さんは、正しいことを言っている。この絵は……素人の写真だ」
浩志は、碧にスケッチブックをわたした。
「それでもよかったら、碧さん、もらってくれないかな？」
「え、い、いいんですか？」
「うん」
そのまま碧は、両腕でスケッチブックを胸に抱えた。まるで、宝物の如く。
「ありがとうございます、浩志さん。……………あら？」
ふいに、浩志の手に残った丸いものに気づいた。
「ああ、これ？ なんか、父さんが参考にしろって」
「………」
「カオスが、詰まってるらしいよ」
おどけて言ったつもりだった。
「碧さん？」
しかし、彼女はただそのフィルムを凝視するだけで何も応えない。
「あっ、ごめんなさい」
浩志の視線に気づいたらしい。正気に戻って、頭を下げる碧。
浩志はそんな彼女の様子が気にはなったが、それ以上にフィルムの中身に興味があったので、その場で別れを告げると、彼は地下へと向かった。
その背中に、碧の視線をいつまでも貼りつけながら。