『秘館物語』-11
「そういえば、望さんは?」
その笑顔から逃れるように、話題を変える。たいがいワンセットで見かけるので、碧ひとりというのは珍しい状況であるから、まずその問いが口を出た。
「いまは旦那様のお世話です」
「あ、そうなんだ」
納得しかけたところで、ひとつ碧が軽く吹いた。
「ど、どしたの?」
「いえ。望さん、旦那様のこと好きなんですよ」
「はい!?」
えらい、急な話だ。しかし、いいのか喋っても? “おしりぺんぺん”がまたしても浩志の脳裏で踊りを踊る。
思いがけない事態の露見に戸惑う浩志を余所に、彼女の話は続いていた。
「望さん、心の底から好きみたいです」
だから、いつも志郎の相手は彼が望まない限りはひとりでさせて欲しいと、碧はお願いされているという。
「旦那様も、まんざらじゃないみたいです」
「なんだって!?」
望は見た感じ、まだ二十歳を過ぎて幾許もないだろう。かたや志郎は、痩せ型で髪も黒いところが多く、標準よりも若くは見えるが、五十路間近の中年である。
「ま、まあ……お互いに好きあってるんなら、ねえ……」
浩志とて、心体ともに子供ではない。それに、親子となって以来、養父の浮世話はついぞ聞いたこともなかったから、それならそれでいい話だと思った。
若かりし頃の養父の凄まじき武勇伝は、彼の周囲から散々聞かされていた。その時は、政界・財界・芸能界ところかまわず、それも、その中にあって常に美人の代名詞となっていた人の名前が宙を舞っていたそうだ。後でほとんどがデマだということもわかったが。
「そういえば、父さんは結婚に興味ないのかな」
ずっと親子をやっていて、彼の口から親密な女性の名前が出ることはなかった。ひそかに母親が欲しかった児童期はともかく、少年になるにつれ、父にどうもその気がないらしいことは浩志も気づいていた。
(………俺の、卒業まで待ってた?)
ふいに湧いたそんな考え。それは、浩志の表情に真摯なものを生んだ。
「浩志さん」
「あ」
いつのまにか自分の考えに没頭していた浩志は、碧がいることを忘れていた。
それが寂しかったわけではないだろうが、少し心細げに碧がこちらを見ている。
「ご、ごめん。考え事をしてた」
「望さんと、旦那様とのことですか?」
「あ、うん……」
「浩志さんは……その……お嫌ですか?」
「ううん」
養父が自分に望むことなら、どんな些細なことであれ、それを拒むことはしないと、浩志は親子になってからひとり誓っている。もっとも、自分の意に添わない理不尽な要求は何ひとつなかったから、その瞬間に誓いを思い出すことさえあまりなかったのだが。
「ただね……。もしも二人が一緒になったら、望さんは戸籍上、俺の母さんになるんだよな、と」
「ああ、それは一大事ですね」
ぽん、と両手を合わせて納得顔の碧。それを望に聞かれたら、ただの折檻ではすまないはずだ。実は以外に天然であることを、既に浩志は見抜いている。
「でも、毎朝早く起きられますね」
「………」
やっぱり昨日のことは相当、根に持っているらしい。そんなにひどく折檻されたのだろうか。
「事あるごとに壊されたんじゃたまらないから、鍵かけられないだろうな」
今日の蹴りは、本当に凄まじかった。なんでも、空手の段位取得者らしいということを後で碧に聞いたとき、背筋が震えたものだ。
「ま、でもさ。祝福はしてあげたい」
「そうですね」
二人は知っている。望が本当は心優しい、よく気のつく女性であることを。そして、館の主である志郎も、寡黙であるが暖かく大きな心を持った優しい人であることを。
「今日の話は秘密にしとこう」
「はい♪」
だから、二人の幸せを願わずにはいられないのである。
そんな優しい気持ちを、浩志も碧も持っていた。