5.-2
異物扱いされたのは由香里も同じだったが、自覚があったから特別腹立たしさはなかった。
「なんで? なんであんな子達に睨まれ……、あっ!」
腿上げをしながらベンチから出てきた後ろ姿。間違いなく康介だった。フィールドサイドをジョグで往復しながらアップを始める。「……オッチャン、出してくれるんだ!」
「監督ね」
しかしまあ彩希言う通り、あの美少年が見事に美青年になってってんな、と由香里は彩希ほどでなくとも康介の容姿を讃えた。遠目で見ても淡麗さが伺える。横目で見ると、彩希は星が瞬いているかと思えるほど目を輝かせていた。すると両手を口元に当てて大きく息を吸い込み始める。うお、この女、こっから大声で呼ぶつもりか。他の観覧者やベンチの選手達から注目を浴びてしまうと予期した由香里は焦ったが、止めても絶対に隙を見てやるだろうから、伸ばそうとした手を止めて覚悟を決めた。
ふと康介がスタンドへ顔を上げたから、彩希も息を止めた。やっぱり大声で呼ばなくても空気で伝わるんだと喜びかけたのも束の間、どう見ても康介の目線はこちらを向いていなかった。女子高生三人組のうちの一人、彩希のことを見つけた女の子が軽く手を振ると、康介が少しだけ手を上げて、Uターンして冷静な顔でダッシュを始めた。
「……。サキ……、サーキっ……。……とりあえず息吐け」
由香里に二の腕を叩かれて、吸い込んだ息をずっと止めていたことに気づいた。はあっ、と身が萎むほどの息をつく。息苦しい。呼吸が戻っても胸が苦しかった。
「……ね、ユッコ。いま何が起こったの?」
「ん? んー……」
もう一度今の出来事を言葉で再現したら彩希が発狂しかねない。「……知り合いなんでしょ。どこの制服かよく分からんけど、康介くんと同じ高校なんじゃない?」
「……なんで私には手振らなかったの?」
「気づかなかったんでしょ」
「スタンドぱっと見てさ、女子高生の制服は目に入って、金髪と小麦色の脚が目に入らないってことある?」
こういう時だけ動物的に鋭いな、この子。由香里は彩希の背中に手を置いて、ゆっくりと摩った。
「気にすんなよ。あの子達さっきから、何とかセンパーイって、試合出てる誰かにキャッキャ言ってんじゃん」
「手振った子は一言も言ってない」
そこまで気づいてんのか。
「……」
ヤベえな、これは。由香里は時計を見て脚を崩した。「帰ろうよ。私、そろそろ帰んないとバイトに間に合わん」
彩希はずっと康介と女の子を交互に見ている。隣から見ると長い睫毛が震えていた。いよいよヤバい。スタンドでギャルが号泣したら……いや、号泣で済めばいいが、あの女子高生に飛びかかりでもしたら事件になる。
「やだよ、帰らない。まだ試合終わってない」
「試合なんか見てねーだろ。……てか、こっからだと遠いんだから、そろそろ出ないと間に合わないんだよ」
実は充分間に合う。だが、これ以上彩希をここに居らせることはできない。
「いい。……ユッコ先に帰って。今日は付き合ってくれてありがとう」
「……今から何しようとしてる?」
「あの子に訊く」
「……何を?」
「何もかも。……康ちゃんに手出そうとしてるんなら……」
彩希はパステルカラーのネイルが手のひらに突き刺さりそうなほど強く拳を握り、ゴールドの弛いブレスレットを揺らした。「殺す」
やっぱり? 誰かが殺人を犯そうとしているのを知っていて見過ごしたら、その人も罪に問われるんじゃなかったっけ?
「落ち着け」
「落ち着いてらんない」
康介くん、こっちも見て手振ってくれないかなぁ。由香里は彩希のトップスの背中を絶対離すまいと握りつつ必死に願ったが、康介はこちらに手を振ることもなく、試合終了までピッチに出ることもなかった。
平日朝は殺人的な満員電車になる東葉高速線からの東西線乗り入れだったが、日曜夕方となると車内はかなり空いていた。丸まった居姿で悄然と項垂れる彩希の隣で由香里がしっかりと肩を抱いていた。
――由香里は試合が終わるまで威嚇の低い唸り声を上げんばかりの彩希を宥めていた。修羅場は軽い程度で済んで欲しいなぁと願っていると、ありがとうございましたと両チームがお互い頭を下げて帰り支度を始めた。
「……ユッコ。行こ」
「どこに?」
ついに我慢の限界を迎えて、あの女子高生を殴りにいくのかと思って着衣を持つ手に力を込めた。
「やめて、ユッコ。服伸びちゃう」