雨傘-3
他のお客さんが数名来店したのを潮に、わたしはまた来るねと言ってお店を出た。オーナーによろしくね、とも。
明奈はお店のスタッフの顔に戻りつつ、いつでもまた来てね、待ってるわと言ってお店の出入口のところで手を振った。
二月の風は頬を刺すように冷たい。
立春を過ぎても、やっぱりまだ冬を感じずにはいられない。
髪が風にさらわれるたび、自分のお気に入りの香水が香った。
手にした新しい雨傘と鞄の中のアクセサリーが熱を持ったみたいにその存在を主張している。
気に入ったものを買えた日はいつもそう。
特別感があって、その重みを幸せに思う。
新しい雨傘。
今使っている雨傘がダメになったわけではない。
でも、買わずにはいられなかった。
何か不思議な力が働いたようにさえ思った。
──運命。明奈の言葉がよみがえった。
きっと、そうなんだわ。
「沙保」
もうすぐ家──というところで、聞き覚えのある声に呼び止められた。
もう聞くこともないと思っていた声。
「沙保」
声の主がもう一度呼んだ。
傘を持つ手に力が入った。
なんとか笑顔を作って振り返る。
言葉を用意する余裕はなかった。
「今、仕事帰り?」
「──うん。ちょっと買い物に寄ったけど」
「そう」
街灯が彼女の顔を浮かび上がらせる。
髪が、伸びた。
「雅也と連絡をとってるわよね?」
「連絡──」
挑みかかるような声。
まるで急に氷の上に投げ出されたかのようだった。
急速に足元から冷えていく。
わたしはただ黙って首を横に振るしかなかった。
「とってるでしょ。わかっているのよ」
違うわ。わたしはあいつからのメールにひとつも返事をしていない。
あいつから一方的にメールを送ってきただけよ。
わたしは何もしていない。
わたしは──。
「最近雅也の様子が変だなって思っていたの。話しかけても上の空だったり見当違いなことを言ったり。それに──」
菜里香の口元が歪んだ。
あぁ、こんなふうに話すひとじゃなかったのに。
「雅也、名前を間違えたのよ。ベッドの中でね。沙保って呼んだのよ!」
わたしは凍りついたようにその場に立ち尽くした。
何も言えなかった。
何を言えば良いのかわからなかった。
どこかの家から煮物のにおいがする。
ちくわが入っているな──なんて関係ないことを思った。
「あんたのせいよ。あんたなんかいなければよかったのに!」
菜里香は叫ぶように言うと、わたしの胸をドンと突いた。
わたしがどさりと尻もちをつくのと、菜里香が走り出すのはほぼ同時くらいだった。
わたしはただ呆然と菜里香の背中を見送っていた。
こんな──こんなドラマみたいな展開がわたしの身に起こるなんて。
菜里香が見えなくなり、足音も聞こえなくなってからわたしはのろのろと立ち上がった。
周りに誰もいなくてよかった。
わたしは傘をしっかりと持ち直すと、洋服を払いもせずに家へ向かった。
酷く疲れていた。