雨傘-10
今日の沙保さんのことをおしえてとヒロキくんはよく言った。
家と職場との往復の毎日に大した変化はないけれど、それでも彼は毎日わたしの様子を聞きたがった。
僕も春からそういった規則正しい生活になるのかなぁなんて言いながら。
ヒロキくんが小さく唸ったかと思うと、突然堰を切ったように早口でまくし立てるように言った。
「ごめん、沙保さん。ダメだ、僕。我慢できない、今すぐ沙保さんに会いたい。行ってもいい?」
「えぇ? もう十一時まわってるよ?」
「お願い! 三十分とかでいいから! 沙保さんが眠くなる直前まで!」
そう言われて悪い気はしなかった。
むしろ、嬉しくて顔がニヤけてしまっている。
雅也はこういったことを言うタイプではなかったから、新鮮でもあった。
「雨だけど、大丈夫?」
「今ちょっと小雨だし、安全運転で行くから大丈夫!」
今すぐ向かうからと言ってヒロキくんは電話を切ってしまった。
わたしは目を瞬いて、それから慌ててベビーパウダーをはたいた。
「急にごめんね」
もう夜遅いからと淹れたほうじ茶をテーブルに置きながら、わたしは笑って首を振った。
「ううん、嬉しかったよ」
「昨日も今日も会えなかったから、我慢できなくなっちゃって。やっぱりこうして顔を見られるのって、いいな」
まるで主人が帰ってきたことを喜ぶ子犬のように、屈託無く笑ってヒロキくんが言った。
たとえどんな我儘を言われたとしても、母性を持っている女はみんなこの笑顔に負けてしまうんじゃないかと思った。
ヒロキくんが脱いだレインコートを玄関のドアクローザーに掛けているからか、室内の湿度が少しあがったような気がした。
気のせいかもしれないけれど。
「そういえば、あれから元カレから何か連絡なかった? 大丈夫?」
「うん、特にないよ。大丈夫」
「よかった。また何か言ってきたらすぐに僕に言ってね。沙保さんに変なこと言う男はやっつけないとね!」
「ふふ、ありがとう。頼もしい」
ベッドを背もたれに、並んで座っていると時折ヒロキくんの香水が香った。
マスカットのような、爽やかでジューシーな香り。
「ヒロキくんっていい匂いがするね」
「沙保さんだって。いつもいい匂いがしてる」
目が合った瞬間、予感がした。
長い睫毛の下に少し潤んだ、吸い込まれそうな二重の目。
ヒロキくんの右手がわたしの頬を顎から包むようにそえられた。
人差し指と中指が耳たぶを挟むように触れる。
重なった唇は弾力があって、そしてあたたかかった。
「沙保さん、好き」
ヒロキくんがわたしの耳元で囁くように言った。
熱っぽく、湿っぽい声だった。
彼のこんな声を聞いたのは初めてで、わたしはただ黙って頷くことしかできなかった。
ヒロキくんの唇が、舌が耳を丁寧に丁寧に愛撫する。
わたしの髪を乱暴にかきあげ、耳たぶを吸い、ふちをなぞり、音をたてて舐めている。
まるで犬のように。何度も何度も名前を呼ばれ、「好き」「好き?」と言われたり聞かれたりした。頭がぼーっとする。それが、ヒロキくんの愛撫に圧倒されたためか薬のせいかはわからなかった。
荒い吐息が、舌の感触が、音がわたしを蕩けさせていく。
いつしかわたしも短い声をあげ、ヒロキくんの名前を何度も呼んでいた。
うなじにヒロキくんが噛み付く。
鋭い痛みが、さらにわたしを乱れさせた。
ふいに身体が宙に浮いた。
そう思った瞬間、身体が自分のベッドの上にあり、ヒロキくんの体重を全身で受け止めていた。