まことの筥-6
「ねぇ」
姫君は唐崎の方を向いて言った。「その人、ここに連れてきて?」
「まあ、何用でお呼びになられますか?」
「べつに。あの方にそんなひどいことをする侍従の君とやらを見てみたいの」
「ですが……」
「……大臣の姫が来いと言っているのに、仕え人が来ないなんてことある?」
そういうと唐崎は何も言わず一礼すると対を出て行った。どんな人が来るのだろう、とうきうきして待とうとしたが、さっき女童になりすますために化粧を擦って乱したことを思い出した。残った女房へ手水を取らせ、時間もないので何とか見れる程度へと化粧をやり直した。しかし仮繕いとはいえ、それなりに時間はかかる。来たら化粧が終わるまで待たせてやろうと思っていたのになかなか来ない。ちょうど化粧が終わったころに漸く対を渡ってくる足音が聞こえて、まず唐崎が、そしてその後ろから顔を伏せているが、足を踏み入れるや部屋の雰囲気の変える女が入ってきた。姫君の手前、さっきまで悪口を言っていた女房二人は脇に控えて心持ち顔を伏せているが、姫君からはその輝きに二人とも眉が寄っているのが見えた。
「初めてお目にかかります。わたくし、侍従と呼ばれております」
やってきた女房は姫君の前に距離を置いて座ると頭を下げた。声も美しいなと思いつつ、
「急に呼んでごめんなさい」
と言うと、
「さて、何の御用でございましょうか」
まだ顔を伏せたまま用件を伺ってくる。焦れったく思った姫君は、少し苛立ちの声を滲ませて、
「ううん、あなたの顔を見てみたかっただけ。面、上げて?」
と命ずると、漸く侍従はゆっくりと口元に笑みを湛えた顔を上げた。
姫君は顔を見せた侍従に暫し見とれた。あの平中が執着するに値する女だった。さっき侍従の顔を想像しようとしたが成らなかったのも当然だった。愛らしく可憐な女を想像しようとしていたのだから。侍従の居姿は冷徹な女のような印象を与えるが、万事におけるそつの無さを物語るように凛としていて、かつ己に対する自信を漂わせていた。何しろ二人の女房たちは姫君と初めて対面したとき、顔を見て思わず表情を崩してしまったのに対し、侍従は眉一つ動かさなかった。それが有能な仕え人である所以のことなのか、端から自分に敵う美貌の女などいないと思う余裕所以のことなのかは分からなかった。いや少なくとも、この女房は平中が身を灼くほどの恋慕に苦しんでいるのが、自分があまりに美しいためだということを知っている。知っていて『見た』の紙片を返してよこしたのだ。
そう思うと姫君は侍従が好ましく思えてきた。平中といい、侍従といい、何と美しいのだろう。このような者を見ることができたことだけでも、本院に来て良かったと思える。
「右兵衛の少尉様のお誘いを断り続けてるって本当?」
前段の雑談もなく、姫君は単刀直入に侍従に本題を問うてみた。それでもこの美しい女房は狼狽しない。
「はい」
「あんなきれいな方なのにどうして?」
これで侍従が言い淀もうものなら、やっぱり皆が言うように美しさを鼻にかけているのかと問い質そうと思っていたら、
「あの男に好かれても嬉しゅうございませぬ」
と何の躊躇もなく平然と言った。それが驕慢に見えた唐崎が顔を顰めている。
「嬉しくないの? ……女たらしだから?」
「いえ。……少尉様のような方からお声をかけていただくことは、わたくしのような者はむしろ喜ばなければならぬことでございましょう。そうでなくとも、男と女のことでございますから、男が他の女に向かうということ、女たらしと、男にばかり咎があるとは言えぬと存じます」
「……なら?」
「なぜでございましょう」侍従はまた微笑を湛えた。「少尉様にお文をいただいても、心が踊るということがございませぬ。僭越ながら、少尉様に身をお任せしても、もとより幸せとは思えないのでございます。なぜと言われるとわかりません、うまく言えぬことでございます。であれば、場逃れに返事を返しても、相手に成らぬ期待を持たせることになります。そのほうが咎が深いと思われるのです」