半世紀の時を経て-3
その時、父が私の娘の志織のことをシヅ子シヅ子、と繰り返すので、私はついにこの人にも認知症の兆候が現れ始めたかと真剣に思い始めていました。
腰を浮かせ、興奮して早口でまくし立てる父にお茶を飲ませてなだめ、ようやく落ち着かせると、私は大丈夫か、と言って父の背中をさすってやりました。
彼はうんうん、と何度も小さく頷いて、横に座った私に向かって言いました。
「おまえに頼みがある」
彼は湯飲みを目の前に静かに置いて、睨むように私を見ながら、今から話すことは誰にも言ってはならん、自分と妻が共に天国に召されるまで、家族にも、私の妻にも決して口外するな、と言いました。
その深刻きわまりない父の様子に私が戸惑いながらもわかった、と言うと、彼は奥の台所をちらちら気にしながら、ある人の居場所が知りたいのだ、と言うのです。
父があまりにも頻繁に妻たちのいる台所を気にするので、私はたまりかねて彼の手を引き、部屋まで連れて行きました。
そこで初めて私は父から貴女のこと、貴女と父との過去を聞いたのです。彼が『シヅ子』という名前に拘っていた理由がようやく解りました。認知症の前兆ではなかったようで、私はほっとしました。
帰宅してから、私は彼が記憶していた断片的なことを頼りに、パソコンを使って調べました。そして何とか貴女のお住まいを突き止めると、すぐに父に電話をしました。それは『Simpson's Chocolate House』のことではないか、オーナーの名前がシンプソンでチョコレートハウスだから、と伝えると、父は電話口でもわかるほどに興奮して、私に命令したのです。その店を訪ねてくれと。
父のあまりの熱狂ぶりに断る術を失った私は、この夏貴女のお店を訪ねました。
そして今日、再び父の部屋を訪ねた私は、そのことを元に貴女への手紙の代筆を頼まれたのです。
父は正座をして、向かい合って座った私の目をじっと見ながら、緊張したように言いました。今からシヅ子さんに手紙を書く。そしてごくりと唾を飲み込むと、いいか、一言一句正確に、私が言うとおりに文字にするのだぞ、と念を押してきました。
ここからはその父照彦本人の言葉です。彼が口にしたとおりの文章です。