笛の音 3.-13
愛美の制止の訴えが聞こえてきた時にはドアを開けてしまっていた。床に膝を付いて姉を見上げている。黒目には困惑と怯えを湛え、頬は気不味さと不本意さに赤らんでいた。居姿は羞恥に包まれている。理由はすぐに分かった。
「どうしたのぉー?」
階下まで騒音が聞こえたのだろう、洋子の声が二階を伺ってくる。
「あ、ごめんなさーい」
有紗は廊下に向かって、「愛美のおっちょこちょいだったー。大丈夫ー」
あははという笑い声。気をつけなさいね、と洋子が呼びかけて寝室のドアが閉まる音がした。有紗も後ろ手にドアを閉めて部屋に入ると、愛美が俯いた。
ノートパソコンが床に転がっている。騒音の正体はこれだ。コードを足に引っ掛けてテーブルから落としてしまったのだろう。愛美をそこまで慌てさせたものは、伏した目線の先に転がっている。
「……びっくりさせちゃったね。ごめんね」
有紗は床に転がっていた、騒音の元凶たる肌色のディルドを拾い上げた。テーブルの上に置くのもおかしいので、手に持ったまま愛美の傍に正座になる。
「ち、ちがうの、おねえちゃん……」
耳が真っ赤だ。鈴口の丸み、裏側へ集まってくる筋、幹に伝う怒張。詳細に勃起を象ったディルドは先端が濡れて蛍光灯に光っている。
「ちがう……?」
「だ、だから、そういうこと、しようとしてたんじゃなく」
「うん。わかる」
優しく微笑んだ。真顔で応対してしまっては、煙となって消えてしまいそうなほど愛美は羞じ入ってしまうだろう。ルーズフィットのキュートなデニムショートパンツに乱れはないから、コレを使って妹が誤解を恐れている行為をしようとしていたわけではないと分かった。それでも羞恥に愛美は、ううっ、と嗚咽を漏らして鼻を啜り、泣き出しそうになっていた。
「だいじょうぶ、お姉ちゃん、変なふうに思ってないよ?」
「う、そ……」
「なにー? じゃ、愛美は私にどういう風に思われてるって思ってんのー?」
髪に手を埋めて、わしゃわしゃと親愛に撫でてやる。
「なんだよ、おねえちゃんのイジワルっ……」
顔が上がった。部屋で一人、こんな大きなディルドを扱っていたところを見られては淫猥な一人遊びをしようとしていたと取られても仕方がないのに、姉だけは大した説明も要さずに違うということを理解してくれた安心感が、愛美に潤んだ目で睨み、拗ねた笑みを浮かべさせた。
「それにしても……」
ずっと持っているのも何なので、愛美が安堵したのを見届けるとディルドをテーブルの上に立てた。「おっきいなぁ。……どうしたの? コレ」
「んと……、ネ、ネットで買った」
「もぉ愛美。……届いた時に叔母さんが開けたらどうするつもりだったのよー?」
「う、ううん。きょ、局留めで頼んだから」
そんな家族暮らしの男が怪しい商品を買う時にするような、むしろ愛美のような女の子が郵便局に荷物を取りに行っているところを見られる方が恥ずかしくないのだろうか。無邪気な愛美が微笑ましくなってきて、
「ふーん……。で? 英文科の愛美が、コレを使って何の研究?」
とからかった。
「ち、ちがうよぉっ」
「だろうね。……コレで愛美に研究させるような大学なら、即効辞めさせるよ」
床に落ちていたノートパソコンも両手に持ってテーブルに置く。エンターキーをタタンッと叩くと画面が復帰してきた。壊れはしなかったようだ。画面にはブラウザが開いている。
「ちゃんと見つからないところに隠してよ? 掃除してて、こんなの愛美の部屋から出てきたら、叔母さん気絶しちゃう。……ま、見なかったことにしてあげる。ごめんね、慌てさせちゃったね。研究熱心なのはいいけど、先にお風呂入ったら?」
有紗が両手をテーブルについて立ち上がろうとすると、愛美が袖を摘んで引き止めてきた。
「あ、あのぅ……」
話があるらしい。顔を見れば分かる。
「ん?」
「……聞いていい?」
「何聞かれるのか、だいたい分かってるんだけど……。答えなきゃだめ?」
「うー」
誰かのブログなのか解説サイトなのか分からないが、画面に開かれたブラウザを見てすぐにページタイトルが目に飛び込んできていた。『愛する人をよろこばせるフェラチオ講座』。愛美はディルドを使って練習をしようとしていたわけだ。
「……さすがに妹でも、したことある、とか、どうやってやる、とかー、……教えられないですけど? ハズすぎる」
「てことは、したことあるんだ、おねえちゃん」
「ノーコメントだっつーの」
「そ、そうなんだけどさぁ……」
無意識のうちに二日間の苦悶が癒やされて、有紗に余裕が生まれていた。直樹と過ごした日に、男茎を慰める研究を行っているということは……つまり、そういうことだ。
「んー、でもさー……」
有紗は立膝だった腰を下ろし、テーブルの上に立ったディルドをまじまじと眺める。「いくらコレで練習しても、してもらってる子に感想聞かないと分からないんじゃないの?」
「う、うん……。サイトにも、人それぞれだ、って書いてた……」
「でしょー?」
「で、でもねっ」