温かな職場-3
9月に入って気づいたことがある。それは神村主任の弁当が手作りではなくなったことだ。
彼は私たちがクラスの生徒たちと格闘しながら昼食をとる場に、週に2度程度やってきて、一緒に彼らの世話をしながら弁当を食べてくれるのだが、気づいた時にはそれが「おたふく弁当」に変わっていたのだ。
「おたふく弁当」と私たちが呼んでいるのは、「おたふく」という仕出し屋が毎朝8時までに電話で注文を受け、昼の時間に会わせて配達してくれる弁当のことだった。独身の、特に男性職員はたいていそのシステムを利用する。職員室での朝の打ち合わせが終わると、誰とはなしに必要数を取りまとめて「おたふく」に電話をするのが日課になっていた。私は栄養が偏るのもいやだし、弁当を作ることをそれほど苦にしていなかったので、今までその「おたふく弁当」を利用したことは一度もなかった。
私が見る限り、それから神村の弁当が手作りに戻ったことはない。ただ、だからといって主任である神村にその理由を尋ねるのも気が引けた。何か家庭内に事情かあるのかもしれないとは思ったが、それをあれこれ訊くことは、彼と私のその時の関係から言っても越権行為だとしか思えなかったからだ。
そのことに気づいて、それほど日が経たないある朝のこと。私は久しぶりに早く出勤したので、いつも隣の机に座ったスタッフの一人、林田がやっていた作業をやることにした。彼女はいつも誰よりも早く出勤して、給湯室に入り、熱い茶を入れたみんなの湯飲みを朝の打ち合わせのタイミングに合わせてデスクに配って回る、という仕事をやっていた。私は五月頃、その二つ年上の彼女に、私がやります、と申し出たことがあったが、彼女は自分の仕事だから、と頑なにそれを譲ってはくれなかった。
その日は私が給湯室でやかんの湯を沸かしている時に彼女がやってきて、やはりその後の作業をシェアしてはくれなかった。
「いいのよ、浅倉さん。これは私が好きでやってることだから」
「で、でも、わたし、新入りですし……」
沸騰し始めたやかんの乗ったガス台の火を消した彼女は、遠慮なく呆れ顔をして言った。「まだ新入りの気でいるわけ?」
林田は笑いながらスタッフの湯飲みを丸い盆に並べ始めた。
「じゃあ、手伝います」
私はそう言って、大きめの急須に茶葉を入れ始めた。
私はその作業をしながら、自分の考えが浅はかだったことを悟った。盆に並べられた様々な形と大きさの湯飲みはその半数以上が個人の持ち物で、残りは私を含めた数人だけが使わせてもらっている、施設で買い置きしてある味気ない湯飲みだったからだ。
「そう言えばみんな『マイ湯飲み』だった……」私が小さく呟くと、急須に湯を入れ終わった林田は口角を上げて言った。
「ね、いきなりじゃ無理なんだから」
勝ち誇ったようにそう言いながら、彼女は並べられた個性的な湯飲みを一つずつ指さしながら、その持ち主を教えてくれた。「これは木村さんの、こっちが主任の」
そうして彼女は私に顔を向け直してにっこりと笑った。
「しかたない。じゃあ、配ってくれる? 浅倉さん」
「あ、はい」
私は、いつも彼女が独占していたその作業の一部でも任されたのが、妙に嬉しかった。
私が職員のデスクを回りながら湯飲みを乗せ始めた時、施設長室での主任会議から神村が丁度戻ってきて、自分のきちんと整理された両袖の机に向かってよいしょ、と腰を下ろした。私は少し慌ててその机に近づき、神村の前に彼専用の白磁の湯飲みを置いた。
神村は思わず私を見上げて、ひどく嬉しそうに微笑んだ。「あれ? 今朝は浅倉さんがやってくれてるの?」
「は、はい。林田さんに無理を言って、手伝わせてもらってるんです」
「またそんなこと言って」給湯室から出てきた林田が呆れたように言った。「神村主任、私が頼んだんです、彼女に」そして私にかわいらしいウィンクを投げた。
神村はふふっと満足したように笑うと、その湯飲みを持ち上げ、ふうふうと息を吹きかけた後、少しだけ茶をすすった。
「ああ、おいしい」神村は大きなため息をついた。
私は残りのスタッフの分を配り終わり給湯室に戻ると、盆をふきんで拭って元の位置に立て直した。