笛の音 2.-3
「そうやって、イヤだイヤだ言っても、ムダ。もう忘れて? 全部」
明彦に今の自分を客観的に言い当てられ、ならば、という気になってかけた電話だったが、直樹の声を聞いていると自分が自分でなくなり、制御を離れて声帯が暴走しそうになる。壁を向いていた有紗が背中に視線を感じて振り返ると、明彦は笑みを消して自分を見守っていた。
「おねがい、有紗さん。とにかく話を聞いて。こんなんじゃ、おかしくなる。どうしても諦められない」
「私はもう、何とも思ってない。彼女に会わせてくれてありがとう。ふっきれた」
「愛美のことは――」
「もう連絡しないで。……生理がちゃんときたら、それだけは教えて安心させてあげるから」
直樹が妹の名を呼び捨てにした瞬間、明彦の前で口を突いて出てしまった。有紗の言葉に少しだけ目を開いた薄い反応の明彦を見つめながら、一方的に電話を切った。
「――ということです」
有紗は恬淡と明彦に告げた。「なので、今日は続き、できません。もしデキてたら森さんにも迷惑がかかるので」
「……了解」
明彦は口元に優しい笑みを湛えて頷き、「……念の為訊くけど、ストーカーされてない?」
「今のところは、大丈夫です。ストーカーされたら……、守ってくれますか?」
「もちろん」
「……軽蔑してますか?」
「いや、してないよ」
明彦はまたナッツを口の中に入れ、「ショックではあるけどね」
ありがとうございます、と何に対するものか訳のわからない礼を言って、有紗は足元のバッグに携帯を仕舞うと肩に掛けた。送っていくという申し出を断って家路についた。
帰っている間、いったい何がしたかったんだろう、という気分が垂れ込めていた。ミニスカートを履いていったくせに、何もしなかった。電話を切ってからずっと胸に痛みを抱えている。余計なことを聞かせて明彦を傷つけてしまった、そんな良心じみた痛みではない。それもそうだ、まだ三日目だ。三日でふっきれるような軽薄な女になりたかったが、それができないのを知っていて、夜道を歩く自分の斜め後ろを追いてくる外套の彼は、今か今かとフルートを吹く素振りを見せつけるのを楽しんでいるのだ。自分以外にも取り憑き甲斐がある女はたくさんいるだろうに、取り憑くに値するヒドイ女もいるだろうに、本当に運が悪い。苦笑していると、家のすぐ近くで物陰から突然人影が出てきた。通り魔にも見初められたのか、それともこれも彼の仕業か、という妄想が有紗を捉えかけたが、
「有紗さん」
と、現れた人物は通り魔よりも質が悪かった。
「……ほんと、ストーカーだね」
溜息をついた拍子に前に垂れた髪を掻き上げて直樹を見据えると、「愛美に見つからないうちに帰って」
直樹を通りすぎて立ち去ろうとすると、腕を捕らえられた。
「有紗さんっ……」
「ちょっ、触んないで! ……大声出しちゃって、警察沙汰になったら、愛美が泣くから」
「話聞いてよ」
「は? する話なんてないじゃん。離してっ……」
フルートの彼は執拗だ。もう今日が終わろうとしているのに、こうして試練を与えたがるらしい。腕を振るって抗った有紗だったが、直樹の力は強く、そしてあの瞳に近くの光が映り込んで澄んで切なげな視線を自分に向けているのが暗闇の中でも分かった。その目で見るな。現実の直樹に会い、その声を聞き、彼の手に触れられると、火曜日にあれだけ苦しく腹立たしく、そして絶望を見たのに、それでも心の奥底から諦めの悪い感情が沸き立ってきそうになる。
「……やめて。ね?」
有紗は自宅の近所で大声を出しそうになっている自分を落ち着かせようと、俯いて下唇を噛み、ともすれば苦しさに喘ぎそうになる息を正し、「本当に、迷惑なの。……せっかく彼氏と会ってるとこにメールとかして、邪魔してくるし、ね」
「『ほぼ彼氏』だって、愛美も言って――」
私の前でその名を、その声で呼び捨てにするな。胸の奥底で滾っている溶岩が、焔柱を上げそうになったから、
「直樹よりマシだから」
と直樹の声をかき消した。
「……また、ウソついてる?」
有紗は、あはっ、と芝居口調で声を上げたが、瞼から涙が落ちた。腕を取っている直樹との間に垂れ込んでくる暗闇は、ちゃんとそれを隠してくれただろうか。
「始まった。……それって、女の子口説く時の直樹の手なの?」
「じゃ、月曜日は何だったの?」
「月曜日?」
直樹がまた自分の側に戻ってきてくれる。そう信じ、しがみついて、キスをされ、やがて情欲の赴くままに何度も精を貪って身体を濡らした。だがそれは呪いの網に狩り取るための餌だった。なのに不変の愛情と勘違いして、まんまと快楽に狂った浅薄な自分は、直樹の二の腕どころか体の全てはもう妹のものなのだから、決して欲しがってはいけないのだ。「……久々に会った直樹が超カッコよくなってたから、ヤリたかっただけ。待たせてた約束ダシにして。……、先にツッコどくけど、ウソ、じゃないからね?」
「そんな顔してる有紗さんにいくら言われても、信じられないよ」