笛の音 1.-12
卑下しているつもりはなかったが、店に来るまでに見かけた女子高生は、茨城に比べると垢抜けて見えた。そして鏡に映った今の自分は、遜色なく洗練された女子高生になっていた。
(直樹が会いに来てくれたら、制服で行こう)
有紗の姿を見た直樹が顔を赤らめるのを想像して口元が緩んだ。いつまでも落ち込んではいられない。お互い高校生になった。地元でない東京でならベタベタしたって直樹の迷惑にはならないだろう。有紗は幸せな思いに包まれるあまり、着替えず制服のまま家路についた。
鍵を開けてリビングに入って驚いた。洋子も愛美も出かけている筈だから誰も居ないと思っていたのに、ソファに叔父が座っていたからだ。
「おかえり」
新聞から目を外して、制服姿の有紗を頭の先から爪先まで見て、「なかなか似合ってる」
「あ、はい……、ありがとうございます」
咄嗟の返事がよそよそしく思えて、叔父の気を悪くさせてしまったかと危ぶんだが、気にしている様子もなく立ち上がり、マグカップを持ってコーヒーメーカーから注ぐと、
「飲むかい?」
と問うてきた。
「え、あ……。はい、いただきます」
コーヒーはそれほど好きではなかったが、緊張でそう言ってしまった。
この家に暮らし始めて叔父と二人になるのは初めてだった。スカートから晒している脚の肌にまとわりつくような視線を感じたが、勘違いだと自分に言い聞かせた。この制服を着ることができているのも叔父のお陰だ。そんなことを思ったら失礼だ。意識的に嫌疑を打ち払ていると、叔父はキッチンの方へ周り、新たなマグカップを持ってきてコーヒーを注いだ。
「砂糖とミルク使う?」
「はい」
「……と、ミルクが切れてる。砂糖だけで我慢してくれるか?」
「はい」
叔父が二つのマグカップを持ってソファに戻る。リビングに入ったところで立ったままだった有紗は、自分のために入ったコーヒーを持って行かれたので、叔父の斜向かいに座った。わざわざ入れてくれたのに飲まないのも失礼だと口を付ける。
(にが……)
砂糖が入っているようだが少ない。自然と眉を寄せてしまって、しまった、と慌てて表情を繕った。その姿を叔父が朗らかに見つめている。時折移る黒目が焦点を結ぶ先を追うと、座ったことで裾が上がって完全に露出している素足に向いていた。有紗は両手を置いて目線を妨げたが、これも、頭の悪い女子高生よろしくスカート丈を詰めたことを、親として快く思わずに丈を見ているのかもしれないと心配になった。
「……もう新しい学校へ通う準備は万端かな?」
「え、はい……」
教科書も購入した。三学年通して使う教科書も、これからの一年だけのために購入するのだからもったいない。学校指定のスクールバッグも届いている。定期も買った。後は学校に馴染み、友達を作って、新しい生活を早く確立するだけだ。
「万が一、学校とか通学路でマスコミが来たら、走って逃げなさい。そして必ずお父さんに教えてくれ」
「わかりました。えっと、あの、今日は……?」
朝は特に何も言わず出勤していった筈だ。そのことを伺うと、信也は肩をすくめ、
「有休促進、ってやつがあってね。会社は半日でも休め休めってうるさく言ってるんだ。管理職が率先しなきゃ、若い連中もなかなか休もう、って気にはならないだろ?」
と、コーヒーを啜る。午後に帰ってくるなど全く言っていなかったのに、まあいちいち言わないものだろうか、と有紗も叔父との間を繋ぐために苦いコーヒーを啜った。
「そうしてると思い出すよ」
すると唐突に信也が言った。
「え……?」
「亜紀姉さんも、その制服を着てた。――三十年近くも前なんだな。デザインは今っぽくなっているのかもしれないけど、パッと見た感じでは昔のままだ」
「そうなんですか」
学校を決めたとき、そんなことは教えてくれなかった。しかし、母と同じ学校に通い、同じ制服を身にまとうことができるのは率直に嬉しかった。
「……叔父さんには感謝してます」
「ん? 何だ急に」
改まって礼を言うのも緊張する。霞れた声では駄目だ、はっきりと言わないと正式な感じにはならない、と思い、コーヒーで喉を潤した。
「叔父さんがいなければ、私も愛美も大変なことになっていたと思います」
「お礼を言うのが早すぎるよ」
叔父は笑って立ち上がると、「……まだまだこれからだ。早く有紗に『お父さん』と呼んでもらえるように頑張らなきゃな」
「あっ……」
気をつけて話していたつもりなのに、有紗は失礼な呼び方をしてしまったと気づいた。早く訂正しなければ。焦りで鼓動が早まって、落ち着くためにコーヒーを飲み干し息をついた。沈殿していた砂糖の甘みの中に、味わったことのない、舌先を突くような痺れを僅かに感じた。『これからもよろしくおねがいします、お父さん』、そう言おうとして見上げた信也が歪んだ。叔父だけではない、四角い筈の天井の輪郭が渦を巻き始める。舌に残っていた痺れが後頭部の鈍痛に変わり、声を発しようとしたが声帯は震えず、重く落ちてくる瞼に抗えなかった。