4. Speak Low-12
「……あれぇ、お父さんは?」
様子を眺めていた早智が、事務所の奥を覗き込んで言った。すると母親は平然と、
「出かけたよ、さっき」
と平松からカンナを受け取りながら言う。
「えっ」
悦子は眉を顰めて、「この時間に着くって言ってなかったの!?」
「言ったよお。なぁ? お父さんに言わんかったの?」
早智が自分が疑われて責められまいと義母のほうを見やった。母親が父親に伝えていなければ伝わっていない。
「言うたよ。知っとるわ」
母親は再び平松に行きたがっているカンナを宥めながら言った。
「知ってる……、のに?」
悦子は呆れた声を上げると、車庫に車を入れた兄が戻ってきた。
「何しとんら、中にも入らんで」
「……いやあ、お父さん、出かけちゃったらしいんよ」
「はぁ?」
兄も目を見開いて母親のほうを見た。
「あー、もしかして……」
早智が急にニンマリと顔を緩めたかと思うと、悦子と平松の方を見た。「お父さん、悦ちゃんが彼氏連れてくるって聞いて逃げたんじゃないか?」
逃げる? あの父親が?
「ばかなぁ、そんなことあるか、なぁ?」
悦子と同じ思いを抱いた兄が母親に同意を求めると、母親は恬淡とした表情で、
「足やって何日か現場に行ってないから見に行くって言って出て行った」
と言った。
「あの足でか?」
「さっき松ちゃんが雀卓借りにきたんだ。その車に乗ってった」
悦子は溜息をついて、
「そんな、今、行かないでもさぁ……」
と平松の方を済まなそうに見やると、少し青ざめているように見えた。早智が言った言葉を間に受けて、悦子の父親に端から嫌われてしまったと思っているのかもしれない。
「……まーそのうち戻ってくる。待っとけ」
母親が中に促した。仕方がない、と事務所からではなく自宅の玄関の方へ平松を導く。玄関で靴を脱いだ平松は悦子が薦めたスリッパに足を入れると振り返って揃え直した。脱ぎっぱなしで上がるだろうから揃えてやろうと思っていたから、なんだよ、やりゃできんじゃん、と平松をリビングのほうへ導くと背後から早智の声で、
「違うよ、悦ちゃん、こっちこっち」
と聞こえてきた。振り返ると、リビングとは廊下を挟んで向かい側の襖を開けて手招きしている。後ろをついていた平松が先にそちらのほうへ導かれた。遅れて入ると、応接間である畳部屋には重厚な座卓を挟んで奥に一つ、手前に二つ座布団が置かれている。何と書いてあるかわからない掛け軸のある床の間には、これまた何焼かもわからない壺に花が生けてあった。どおぞぉ、と言う早智に会釈をして平松が足を踏み入れていくと、悦子は焦った声で早智に耳打ちをした。
「ちょ、ちょっと。リビングでいいじゃん」
「いかんよぉ、大事なお客様ら?」
「で、でも」
改めて和室を見渡すと、格式張って重くるしい空気が薄淀んでいた。悦子が入ってこないから平松も二つ並んだ座布団の手前で所在なげに立ち尽くしている。こいつと付き合ってんだ、まあお父ちゃんお母ちゃんにも合わせとこうと思って、娘として気軽に父母、特に父親に、さも大したことでもないように気楽に紹介するのを頭の中で何度も練習してきたのに、この場はあまりにも正式すぎる。
「だ、だからね、早っちゃん……」
何とか会場を移そうとする悦子を無視した早智は、和室の方へ振り向かせて背中を押して中へ入れ込んだ。振り返って文句を言おうとすると、お茶持ってくるね、と言って襖が閉められる。
「……。す、座る?」
「うん……」
悦子が勧めると、平松は携えていた紙袋を手に座布団の上に座った。せっかくカンナが少し和ませたかと思えた平松の表情は、和室の空気に飲まれて緊張ひとしおだ。あまりにも不憫だ。
「ごめんね、ウチの父親、変わってんの。あんまり何も考えてないから気にしないで」
彼氏が会いに来ると知っているのに外出した父親。平松の頭の中ではよからぬ想像が巡っているだろう。うん、とだけ言った平松は背筋を伸ばした正座のまま黙っている。隣から観察していると気分を落ち着かせようとしているのか、丸こい体をゆっくり膨らませ萎ませている。
「足、くずしたら? 痺れるよ?」
引き締まったとはいえ、重めの体重を支えていては早晩足が動かなくなるだろう。
「……だ、大丈夫」
「そう? わたしはヤバいから遠慮なく」
と悦子は座布団の上でスキニージーンズの長い脚を折って斜めに崩すと、座卓に凭れかかるように肘をついた。行儀が悪いのは分かっているが、この空気を緩和するためにわざとそうしたのだ。身を平松の方へ向けながら、
「……緊張してる?」
と当たり前のことを問うた。
「うん」
「しなくていいよ」
「むりだよ」
それもそうだ。でもそんなに緊張されたら自分も緊張してくる。悦子が他愛もない話で場を和ませようと話題を探していると、背後の襖の向こうから、しつれーい、と脳天気な声が聞こえてきた。