3. Softly, as in a Morning Sunrise-12
馬鹿だなあ、ほんとに。
残ってまでやる仕事がないのなら帰ったっていいし、仕事が終わったのなら飲みに行ったってかまわない。だが、俺も行っていい?、の参加意志の表明もなく、彩奈の一行をそぞろ追けていって場に混じろうなど浅はかだ。その張本人たるや、ちょっと私が不在だからって、可愛らしい新人に声をかけてカッコよく教えて、調子づいたか、どう?、今日飲みにいかない?、と気取って誘うなんて姑息すぎる。――姑息?
悦子は一瞬手が止まった。姑息なことをしでかすということは、相応の企みがあるということだ。眉間を寄せて舌打ちを打つと、過去案件の検索実行のエンターキーを力強く叩いて、二つ向こうの島の係長を驚かせてしまった。機嫌悪そうだね、という苦笑を向けられて、いーえ、と顔のパーツのみ並べ替えただけの笑顔で会釈して資料作りを続けた。頭を巡る苛立ちが物凄い。そうそう半年前、平松と出会う前は毎日こんな感じで仕事してた。イライラしてても質を落とさないのが、私のスゴいところよね。半年前のものとは違って、今日のイライラはそうやって自分を褒めながら前に進めなければとても耐えかねる類の物だった。彩奈と酒を酌み交わしながらニヤけている平松の表情を想像しないようにするために。
だが悦子の作業は就業中に起こった以上の回数巡る堂々巡りを経た後にやっと終わった。時計を見ると22時近い。平松に電話をしようと思ったがやめておいた。さすがにお開きになっているだろうと思ってバッグを手に取って、まだ残っている係長にラストなので戸締まりお願いしますと声をかけて社屋を出た。携帯を見たが平松からは着信もメールもメッセージもなかった。一応電話しておいてやるかという考えが頭をよぎったが、これでもし電話してまだ飲んでいる最中だったら、何をそんなに盛り上がっているんだと頭から湯気を噴きそうになっている苛立ちが愈々沸騰するだろう。それどころか、電話を掛けても呼び出し音が続くばかりで出なかったら……。
帰りの電車の中でも不機嫌に腕を組んでドアに凭れながら様々なことを考えていた。最寄り駅に着いて家路を歩きながら、こんな暗がりを彼女で一人で歩かせて襲われでもしたらどうするんだと、平松と付き合うまでも付き合ってからも何度も一人で歩いた道すがら憤りが湧いてきた。もしかしたら先に悦子の部屋にきて、どうせ食事の用意も何もしてないだろうが待ってくれているのかもしれないとひらめいて最後の角を曲がったが、真っ暗な悦子の部屋のバルコニーが見えた。こんな思いをするくらいならひらめかなければよかった、頭悪いな、と自戒して、何の食事も買ってきていなかったが、これから引き返して最寄りのコンビニに行く気にはなれなかった。
平松が来ない日もあるから、特段珍しいわけではないのに、鍵を開けて入った真っ暗な部屋は猛烈に殺風景に見えた。リビングの電灯のスイッチを押してから、瞬いて灯りを満たそうとする蛍光灯の鈍さにすら苛立って、思わずバッグをベッドへ投げてしまった。まだ飲んでるのかな。後から合流してください、って言ってたくせに、まだですかの一言もなかった。
これは怒っていいと思う。何故に怒っているか訳がわからないと言われようが、こんなミジメったらしい気分にさせられていることじたいが大きな罪だ。悦子はいつも平松に座らせてやっている大きなクッションの上にお尻をついてへたり込むとローテーブルに突っ伏した。暫く口をきいてやるものか。
だがベッドの上のバッグから振動音が聞こえて、急いでにじり寄り取り出した携帯の画面に平松の名を見つけると、数秒思案しただけで応答バーをスワイプしていた。
「もしもし」
「あ、悦子、いまどこ?」
まだ一緒に飲んでいる連中の前で呼び捨てかつタメ口だなんて、酒の勢いで私達の関係をゲロったのか、と恐れと期待が勃こったが即座に理性が否定した。平松は恐ろしく酒が強い。というより、アルコールが全く体に吸収されない体質なのか、へべれけになる悦子と同じペースで飲んでも全く変わらない。だから二人の関係を社内に発表するわけはないし、ということは皆と別れて一人になったのだろう。
「家……」
「あれ、合流してくれなかったんだ。体調悪いの?」
「ううん」
怒っているのだ、不機嫌な声を出さなければと思ったが、今日は恋人の時間はナシ、と諦めそうになっていたところへ平松が呼び捨てにしてくれたものだから、どれだけ鬱屈を声に込めてやろうと思っても、それは社内で平松に対して発する声音よりもずっと柔らかいものだった。「終わったら22時前だったから。さすがにやめといただけ」
「そっか……。でも、終わってから来ても殆ど飲む時間なかったからそのほうが良かったかもだね」
悦子は時計を見た。23時を回っている。今まで飲んでいたの? 主役のお姫様も一緒に?
「悦子」
「……なに?」
平松の声を聞いて澱みが薄れたかと思いきや、忽ち更に汚泥が垂れこんできて、図らずも悦子が当初求めていた不愉快さを露わにした声になっていた。