2. Sentimental Journey -26
平松が不意にコートを抑えていた手の上に手のひらを添えてきた。目線だけで周囲を窺うが誰も自分たちを見ていない。
「……何?」
「楽しかったね」
そりゃ、あんたはね。今朝受けた恥辱に毒づいたが、二人で大阪の街を歩き、串かつを食べ、観覧車に乗ったことを思い出した。悦子も楽しかった。そして美しい夜景の中でイヤリングももらった。そのせいで落ちちゃったよ、わたし。それから夜に抱かれた、もう曖昧になってしまった感覚的な記憶。幸せだった。しかし彼はこの先も自分を濃密に抱き続けてくれるだろうか。付き合いたてはお互い気分も高ぶっているが、やがて慣れがそれを薄めてくるのはよくある話だ。いつか飽きられる? 自分は確実に平松よりも先に歳を取る。自分より若くて可愛らしい女がどんどん世の中に現れる。
沈鬱を引きずってホテルを出てから新幹線に乗るまでは手を繋ぐとすぐに和んでいたのに、もうこんな気分になっている。怖いくらい不安定だ。
「……、うん……、楽しかった」
「また二人でどこか行きたい」
悦子は手を握られていない平松の座席とは逆の腕を肘掛けに置いて、こめかみをそこに置いて平松を見た。不細工だなぁ。そこまで言ったら可愛そうだが、少なくともカッコよくはない。それでもこうして手を握ってくれていると嬉しいし、昨日平松が言ってくれたように、誰よりも自分を好きになってくれていると思う。この愛しみを失う時のことを考えるとたまらなく悲しい。
「そうだね。……行こう」
最後がすこし黙泣の震えに濁った。どこあたりからこんな塞いだ気分が垂れ込めて来たのかわからなかった。
「……どうしたの?」
悦子は小さく首を振った。必死に男を繋ぎ止めようとする女なんてダメ女の典型なんだろうな、と思いつつ、
「させてあげればよかった」
と静かに言った。
「何が?」
「……今朝。顔」
「え」
公共の場での悦子からのまさかの言動にさすがに平松が怯んだ。「どうしたの? いったい」
「したかったんでしょ? 顔に」
メイクの途中だったが断らなければよかった。頭の中で勝手に平松との行く末を想像している間に、どうしても不幸な結末しか思い浮かばずに不安になって、今朝ちゃんとあの熱い迸りを顔に受けて、一ヶ月前から変わらぬ思いを確認していればもう少し幸せな想像もできたのにと悔やんだ。
「うん」
「なんか男のそういう願望ってのが分かんないけど」
悦子は前の座る中年サラリーマン氏の、座席の背から見える薄くなった頭を見た。ピクリとも動かない。寝息が聞こえるから眠っているのだろう。後ろには誰も座っていない。「何でそんなことしたがるの?」
「それは……、もちろん、好きだから」
「顔に出すのが?」
「悦子が」
知っている答えに心が潤う。が、不安は薄れても決して消えない。
「……してもらえなくなったらどうしよ」
馬鹿げた会話だと自分でも思った。だが言わずにはいられなかった。美人だね、と言われるこの容姿はいずれ崩落へ向かっていく。キレイな顔を汚して自分のモノにしたいと言うなら、キレイでなくなったらどうなるのか。
「悦子……」
悦子が陥っている深刻さは平松にも伝わって、コートの上に置いている手の甲を愛しみを込めて撫でてくる。「ずっと好きだよ」
「そんなのわかんない……」
「どうしたらいい?」
悦子は唾液を飲んで気を整えようとしたが口の中が乾いていた。
「今朝、わたしイジめようとして、焦らしたつもりでしょ?」悦子はゆっくりとした瞬きをして、肘をついたまま力なく笑った。「……失敗だよ、これ」
「……」
「ずっと好きだって言ってるくせに、それを朝、わたしに感じさせてくれなかった」
「ごめん……」
「パンツ履かせないのも、……『そういうこと、もうしてくれなくなったらどうしよう』って、わたしが思ったらどうすんの?」
「そんなつもりじゃなかったんだ。……悦子、違うよ」
「横浜着く前に、私、壊れる」
悦子は頭を付いていた腕を肘掛けから外し、コートを掴むと平松と自分の手を上から覆った。組んでいた脚を下ろして座席で開くと、腰を浮かせてタイトスカートの中に導いていく。絶頂直前で放置されている最奥は、下着無しで歩いてきた妖しい期待にずっと敏感なままで、自分と平松の十本の指がそこに及ぶと、強く結んだ唇の奥で、んっ、と声を漏らした。平松の人差し指が緩んでいる狭間を撫でると鳴る小さな音が新幹線の走行音にかき消される。
「今してくんなかったら壊れる」
悦子は身をもたげて平松の方に寄せた。耳に唇を近づける。言わなければ不安に圧し潰される。「翔ちゃん。……イジってください」
焦らされても煽られてもいないのに敬語で訴えただけで奥から蜜が漏れて平松の指を濡らした。邪淫の雫だ。早くこれを清廉とした恋情の雫に変えて欲しい。
「ん……」
平松が周囲に気を払いながら指を秘門に潜らせてきた。緩く出し挿れし始めると、悦子はコートの中から手を出して平松のパーカーを握った。平松と付き合い始めて一カ月、もう三十を越えたというのに、この年下で、部下で、容姿が整っていない恋人に新しい喜びを教えてもらってばかりだ。いままで女王様だ女神様だと崇め奉られてきたこの私が、彼らに好きだと言ってやるだけで男は望外の喜びに一生自分を愛し続けただろう。平松に告白する時には無意識な驕りあったのかもしれない。平松にずっと一緒にいて欲しいのならば、彼が一緒にいたいという女にならなければいけない。