居候-7
(6)
秋が深まり、雨の日が多くなってきた頃、村瀬の不注意から空き巣に入られてしまった。盗まれたのは石渡の生活費で、月初めのことでそれはまとまった額だった。すべてはうっかり戸じまりをせずに買い物に出た村瀬の責任である。もちろん全額弁済するつもりだったが、帰宅した石渡はその時初めて露骨に不快さを表した。村瀬はひたすら謝るだけで怯えた。だが石渡は怒りの形相を見せたものの、何も言わずに沈黙を押し通した。そして乱暴に煙草を吸い、食事もせずに布団に潜り込んでしまった。
取り残された村瀬は渦のような感覚が胸を回流し始めたのを感じていた。
石渡の部屋を出ることができなくなった。……
おかしなことに、起こった事態が村瀬の行動を心理的に拘束することになった。
(こんな不始末を起こしたまま石渡に背を向けることはできない……)
このまま去ってしまったらもう二度と彼に会う切っ掛けはないような気がする。
(償いをしなければ……)
彼だけの理屈であったが、心の中は泥濘のようだった。
とはいえ、石渡がはっきりと出て行ってくれと言ったとしたら、村瀬は言葉もなく落魄を背負ってドアを開けるしかなかっただろう。
石渡は何も言わない。出て行けとも、弁償しろとも、また、気にするなとも言わなかった。
それが辛かった。なぜ何も言わないのか。どう考えても自分の過失に弁解の余地はない。何よりも石渡が見せたこめかみや頬の微妙な強張りはいつ爆発してもおかしくない感情の亀裂を表していた。
村瀬の非常識はとっくに限界を超えていた。
(わかっている……)
この部屋にいることには陰鬱に悩んでもいた。石渡にしてみればうんざりもし、やり切れなくも感じていたはずだ。
その証拠に外泊が多くなっていた。ここ最近は三日に一度くらいの割で帰らなかった。泊った翌日は必ず寝不足のような疲れた顔で帰ってきた。
「彼女と会ってたのか?」
村瀬がひやかしてもほとんど口を利かなかった。
そんな生活が続いていた。
初めは石渡にきらめくような魅力を感じていた。その魅力とは何か。考えてみると曖昧であった。いうなれば、彼の感性、思考感覚、生活感といったものが複合されたもののような気がした。それらはなぜか鈍色の印象をもって見られた。とても冷たく、一見地味な色なのに底力のある輝きを放ち続けるのだ。
その光に魅せられて村瀬は石渡のそばにいる。……だが、今は長く居すぎたことを後悔していた。ずるずる居続けたことで様々な不和の要因が蓄積され、少しでもどこかを動かすと何もかもが崩壊してしまうような張りつめた状況になっていた。
いつだったか、村瀬は酔って座布団の上に嘔吐してしまったことがあった。また、皿を割ってしまったり、石渡の教科書に醤油をこぼして汚したこともあった。
些細なことではある。しかしそれらの事が何のシコリにもならずに石渡の記憶から消え去っているとは思えない。何かに形を変えてきっと残っている。
何も言わずこの部屋を後にすれば気持ちは安らぐだろうか。いや、そうはなるまい。それは石渡とのすべてを失うことになるかもしれない。彼はもう村瀬を誘うことはしないだろう。……
その夜も夜半を過ぎても石渡は戻らなかった。村瀬は布団に寝転んで長い時間天井を見つめていた。時折どこかで犬が吠え、車が通り過ぎた。
そのうち終電らしい響きが遠くからきこえてきた。村瀬は微かな怒りを覚えた。
どのくらい経ったのか、そのまま寝入ったらしく、物音で目を覚ました。スリッパの音である。誰かがトイレに立ったようだ。ここは共同トイレである。
戻ってきた音と気配が通り過ぎ、管理人と思われるドアが閉められた。村瀬は不意に疼くものを感じて煙草を取って火をつけた。
しばらくして起き上がると、そっとドアを開けた。ふだん気付かない軋みが鳴った。
廊下にはひんやりした静寂が黄色い電灯の灯りの中に薄気味悪いほど沈んでいた。そのまま立ち尽くして耳を澄ませた。どこかの部屋から男の咳がきこえた。
スリッパのまま忍ぶように外へ出た。夜気に触れて身震いすると背を丸めて庭の方へ回った。歩く度に虫の音はやみ、動かずにいると離れた辺りからまた鳴きはじめた、夜空には囁くような星の輝きが散っていた。
管理人の部屋の窓に目を向けてゆっくり息をついた。腰を折って壁を伝って進む。途中一息つくと掌にねっとりとした汗をかいていた。緊張感が高まってきて自分の息遣いがはっきり聴こえる。
窓の下にたどり着き、動悸が治まるまで動かなかった。そっと振り返る。周囲に人の姿はない。
(女が寝ている……)
思い切って窓枠に指をかけた。少し力を入れた。動かない。
(やはり鍵がかかっているか……)
呼吸を整え、もう一度試みた。わずかに動いた。さらに強く引いて慌てて身を縮めた。音を立てて開いたのだった。
体を熱が走り抜けた。すぐに逃げられるように身がまえて気配を窺った。女は眠っているようだった。ほんの少し開いた隙間から室内のにおいが流れてくるようだ。
中は真っ暗やみではない。かすかな明かりが点いている。もっとはっきりにおいを吸い込みたいと思った。さらに指をかけた時、
「オイ」
押し殺した声にギョッとした。鼓動の連打。
振り向くと石渡だった。石渡は目で何か言い、顎をしゃくった。そして無言のまま玄関の方へ歩いていった。
部屋に戻った石渡は着替えもせずに布団に潜り込んだ。村瀬は悲しいほどおぼつかない足の震えをどうすることもできず、泣きたいような心境になっていた。