鎖に繋いだ錠前、それを外す鍵 3.-1
3.
陽太郎と付き合うことにした、と言ったら智恵に鼻で笑われた。
「知ってる。今日掃除してるときヨーちゃんがコワい顔で私に言うてきた」
智恵は下唇を突き出して肩を竦めた小憎らしい仕草で、「ええんちゃう? 付き合ってみたら。うまく行くとは思えんけど」
「いいの?」
「ええも何も。なん? 私がダメって言うたら付き合うのやめるん?」
「やめない」
智恵はもう一度肩を竦めた。
次の日から陽太郎がバイトに入る日は、業務後に茅場町まで歩き始める前に智恵は「ほんじゃ、お先」と言って先に一人で帰っていくようになった。アルコールが飲めない友梨乃を飲みに誘っても可哀想だし、飲み屋以外だと近くのファミレスくらいしかないから、毎度陽太郎はそこへ誘い、ご飯を食べながら話をしてマンションまで送って帰った。ファミレスではもっぱらレディースのファッションとメイクの話だった。我ながらこんな話ばかりしているカップルもそうそういないだろうと思った。彼女のための話ではない、彼氏のための話なのだから。しかし話をしている時の友梨乃は本当に楽しそうで、陽太郎の女装をいかに美しくするかを真面目に考えているようだった。
或る日の業務後、また店長を残して店を出た。この日は智恵が休みで、代わりに別のアルバイトの女の子が入っていた。その子は八丁堀経由で千葉の方へ帰るから、三人で茅場町まで一緒に行き、友梨乃を残して地下階段を下ると改札をくぐって日比谷線への階段を下っていくその子を見送った。背が完全に階下へ消えるのを見届けると友梨乃にメッセージを送る。すると友梨乃は遅れて地下鉄へ降り、改札を通ってきた。智恵以外の店の人間には付き合っていることを内緒にしている。店のスタッフ同士で恋沙汰になると、別れた時にどちらかが辞めたりするから避けるように、とお互い採用時に店長から言われていた。もっとも店長の妻も同じ店舗で働いたアルバイトだったので、できればね、と最後に付け加えられた。
陽太郎は友梨乃を東西線のホームへと導いていった。今日、友梨乃は陽太郎の部屋に来る。特に事前に申し合わせたわけではないのに、友梨乃はいつもより大きめのショルダーボストンを持ってきていた。どうやら、泊まるつもりだ。店が終わる時間と茅場町と落合の距離を考えるとごく自然な発想ではある。しかし過剰な期待をしてはいけない。そんな急に友梨乃が「慣れる」わけがない。まずは女としての自分を完成させて、友梨乃の女友達から始めて徐々にほぐしていくのだ。決して無理にこじ開けてはならない。
「左の方に行くの初めてかもしれない」
手すりに両手でつかまりながら友梨乃はドアの上の東西線の路線表示を見上げて言った。この時間は反対方面に比べると中野方面はいつもは空いていて座れたりするのだが、この日は少し混んでいた。陽太郎は他の男に友梨乃が触れるどころか、香りを嗅がれるのですら嫌だったから、後ろから同じ手すりを持ってガードするようにすぐ背後に立っていた。
「左?」
「中野区とか」
西の方と言いたかったらしい。時折飛び出す友梨乃の天然な発言に陽太郎は胸を潤ませて、
「ユリさんって絶対、方向オンチでしょ?」
と笑った。
「……なんでわかるの?」
友梨乃が不本意な睨み顔で振り返り口を尖らせた。
「何ででしょ」
陽太郎はそんな会話と友梨乃の表情に胸を疼かせながら、こんなんが明日の朝まで続くんか、苦行やな、と心の中で苦笑いしていた。だが何とか手に入れた友梨乃の隣を失いたくはないから、絶対自制すると改めて心に決めた。
落合駅を降りて家に向う途中、夕飯を作る、と深夜までやっている小さなスーパーマーケットを見つけた友梨乃が寄ろうと言った。
「料理上手そうですね」
「いきなりそんなこと言わないで。やりにくいから」
「ユリさんの作ったものなら何でも食べますけど。……あ、でも、あんまり料理道具無いんです、ウチ」
買い物カゴを持って友梨乃の後に追いていきながら、「さすがに包丁とまな板あるよね?」とか「これくらいの大きさのお鍋ある?」とか尋ねて食材をカゴに入れていく友梨乃の後ろ姿に、今の自分たちを他者が見たら恋人同士に見えるだろうし、こんな美しい友梨乃が自分のために料理を作ってくれるなんて大半の男が羨ましがるだろう、と陽太郎は幸福感に包まれていた。
「パスタ……、でいいよね? どれくらい食べる?」
「じゃぁ、大盛りで」
「男の子がどれくらい食べるなんてわかんないしなぁ。……それにそんな凝ったモノ作れないよ? 嫌いなモノは?」
「あんまりないですね。戻したシイタケとレーズンくらい」
「干したヤツがだめなの?」友梨乃はスマートフォンのレシピサイトを眺めながら声に出して笑って、「シイタケもレーズンもパスタには入れないから安心して」
そして友梨乃はふと見た棚に気づき、オリーブオイルの大きな瓶を取って陽太郎に見せた。
「オリーブオイル、美肌にいいって知ってた?」