略取1-3
元気な姿だけでもひと目見たい。どこで待ち伏せしても娘と会うことができない。奈津子の姿を発見すると反対側の門から出て行くのかもしれない。そうまでして会いたくないのだ。学校の中に入ろうと思ったが、それをしたら完全な断絶を意味するに違いない。枯れたと思っていた涙がまたあふれ出した。
田倉とのことは弁解の余地はない。いつかこうなるであろうことは頭ではわかっていた。わかっていてもやめられなかった。情事を思い出しては恥じ入り、自責の念にかられる。
夫を心から愛している気持ちはずっと変わらない。今さらそのことを伝えても無意味だ。この先ずっと、家族からゆるしてはもらえないだろう。生まれて初めて死を考えたが、娘の失踪で霧消した。家から追い出すことをしない夫には感謝してもしきれない。
食事の支度や掃除、洗濯くらいしかできないが、これからも夫に尽くしたい気持ちは変わらない。寝室も別になり会話もないが、作ったものは食べてくれる。洗濯したものを身につけてくれる。それだけで幸せだった。
今日も会えなかった。重い足取りで家に帰る。
大方の家事を終えると、ケータイが鳴った。画面を見ると恵からだった。動転してケータイを落としそうになった。
「もしもし、恵ちゃん!」
聞こえたのは野太い男の声だった。猛々しい猛獣のような。
「はじめてご連絡いたします。ここに娘さんがいます。奥様さえよろしければ、どうぞこちらお越しください」
ケータイを切ると大急ぎで外出用の服に着替えた。ハンドバッグの中身を確認してからメモを書いた。
指定された場所は超高級マンションだった。一歩足を踏み入れるとそこは異次元の世界だった。男が電話で告げたナンバーは最上階の部屋だった。専用のエレベーターに乗るとたあっという間に到着した。なぜこんなところに恵がいるのだろう。
出迎えたのは初老の男だった。体全体が分厚く、山のような体躯に圧倒されて思わず後ずさる。男は奈津子を招き入れた。体を開いただけだったので、目の前を通らざるを得ない。「失礼いたします」と頭をさげたそのとき、強烈な体臭を鼻孔で感じてむせ返りそうになった。男の体臭ばかり気になったが、身だしなみを整える余裕もなく気を急いて走ってきたので、こちらも同じだと思ったとたん頬が熱くなった。
広々としたリビングにとおされた。大きな窓から都会の景色を見下ろせる。まるで天空にいるような気分であった。一晩、何十万もするホテルの部屋とはこんな感じなのだろうか。その金額さえ知りえない。ここにはいくつ部屋あるのだろう。全ての調度品がまばゆいばかりに輝いている。そのどれもが高級品であることは素人でもわかる。男の顔は何となく見覚えがあったが思い出せない。
「お話しますから、どうぞお座りください」と、手のひらを見せた。まるでグローブのようだ。指の太さに息をのみ、思わず目を背けた。
ワインがぎっしり収まっているワインセラーから赤ワインを一本選んだ。アンティークなグラスキャビネットからワイングラスを二個。今からそれを飲むということだ。器用に栓を開け、スマートなグラスについだ。大理石でできたテーブルに置く。昼間からお酒なんて、と思ったがそんなこと言える雰囲気ではない。冷蔵庫からチーズの盛り合わせを取り出し、テーブルに置いた。
「申し遅れました。岩井といいます」笑みをたたえながらグラスを傾けた。そのとき、あっと思った。
「大変失礼ですが、代議士、の……」
代議士のあとに『先生』をつけるかどうか迷った。
「うん、まあ」と口を濁し、「どうぞ、お口に合うかどうか」と、また手のひらを見せた。その手を見ないようにして、そっとワインを口に運んだ。相手の素性が明らかになりホッとした。奈津子を見つめる岩井は口元にかすかな笑みをたたえていた。
「とっても美味しいです」
とは言ったが、ワインを味わうどころではない。
「ところで」
「うん、娘さんの件ですな」と遮った。
「今、どこにいるのでしょうか」
気が急いているせいか、一瞬めまいを感じた。
「そちらに連絡もさせましたし、ちゃんと学校も通っていますぞ」
岩井は笑う。
体に違和感を感じた。ふわっとした感じだ。ワインを一口飲んだだけで酔うはずもないが。