ときめき−二人の出会い-4
◆
すずかけ工業高校の芸術棟は、校地の東に位置している。南北に長く延びた二階建ての校舎で、その二階の一番南端に音楽室があった。
一年生の月影冬樹(16)は、芸術棟のエントランスにある靴箱に脱いだ靴を入れ、スリッパも履かずに靴下のまま階段を上った。そして二階の一番奥にある音楽室の前で立ち止まった。
音楽室の入り口の横にあるドアをノックした冬樹は、中からどうぞ、という声がしたのを確認してノブを回した。
「冬樹君」
その部屋の奥、東に向いた窓のそばに置かれた机に向かっていたその音楽教師、鷲尾彩友美は、立ち上がってにっこり笑った。
8畳ほどの広さのその音楽準備室は、作り付けのキャビネットにたくさんの本や楽譜、数本のギターや琴がきちんと並べて立てられていた。中央に5、6人が囲んで座れるぐらいのテーブル。その真ん中に赤いバラのプリザーブド・フラワーが置かれていた。
「おはようございます。先生」
冬樹はぺこりと頭を下げた。
「約束通りの時刻ね。で、音楽室のピアノを使いたいの?」
「はい。僕の家にはアップライトのピアノしかなくて、タッチの練習をさせていただきたいと思って……」
「いいわよ。夏休み中はずっと開いてるから。いつでも」
「ありがとうございます」冬樹はまた頭を下げた。
音楽室に入った冬樹は、西側の窓を開けていった。隣の3階建ての実習棟が立ちふさがり、視界を遮っていた。いつもなら課外実習が行われていて、そのいくつかの窓が開けられ、中で作業服を着た生徒が工具を持って机に向かっていたり、白衣を着た生徒がピペットを持って室内をうろうろしたりしているのだが、今日は土曜日なので、窓は一つも開いていない。
それから冬樹は東側に向いた窓を開け始めた。
二つ目の窓を開けたところで、彼はその先にある屋内プールの建物に目をやった。
校地の東の隅にあるその屋内プール棟は、一階部分が各部活動に割り当てられた更衣室を兼ねた倉庫になっていて、二階に当たる部分に高校にしては大きな50m×6コースのプールがあった。
「水泳部……」
冬樹は窓を開ける手を止めてプールの様子をうかがった。
「あの人……」
プールサイドで何人かの部員に話をしていたのは、朝から彼に声を掛けてきた明智勇輔だった。そこに立っていた水泳部の男子部員たちは一様に丈の短い競泳用の水着を身につけていた。冬樹は思わず窓に掛けていた右手を自分の胸に移動させた。
冬樹の目は、何やら大声で指示しているその男子生徒の水着の膨らみに釘付けになっていた。
その時隣の準備室から続くドアが開いて、彩友美が顔を出した。冬樹はびくっと身体を硬直させた。
「冬樹君、窓……、ああ、もう開けてるのね」
「は、はい……」冬樹は慌てて身体を彩友美の方に向けた。
「今はまだ涼しいけど、暑くなってきたらエアコン入れていいから」
「は、はい。ありがとうございます」
「冬樹君、ちょっと顔が赤いよ」
「え? そ、そうですか?」
彩友美が顔を引っ込めた後、冬樹は閉められていた残りの窓を全部開けたところで、もう一度プール棟の窓の中に目をやった。校庭で声を掛けてきたあの男子生徒の濡れた身体を見ている内に、冬樹の動悸は図らずも速くなっていった。彼は思わず目をそらし、慌てたように教室の黒板の前に置かれたピアノに足を向けた。
冬樹はピアノの蓋を開け、譜面台を立てて、バッグから一冊の楽譜を取り出して立てた。そして静かに白い指を黒い鍵盤に乗せると、穏やかな和音から始まる音楽を奏で始めた。
「あら……、テレーゼ・ソナタ……」隣の準備室で彩友美が紅茶のカップを口から離して呟いた。
「優しくて幸せそうな音色ね……」彩友美はにっこり微笑むと、あらためて紅茶を口にした。