２．湿りの海-15
「ん？」
井上が立ち上がって近づいてくる。やはり徹と話させながら何かするつもりだ、と身を固くして井上の近づく方向から逆に身を向けたが、井上は後方から肘掛けと背凭れに手をつき、屈んでスピーカに耳を近づけただけだった。
「明日……、東京行っていい？」
「……、……」
チラリとすぐ傍の井上を見やると、顔には愉楽の表情が浮かんでいる。目を細めて笑みを押し殺している。「……だめ」
「何故？」
「だって」
紅美子は電話とは逆側の髪を耳にかき上げた。頭痛が強まって額とこめかみに指を押し当てる。「徹、研究忙しいんでしょ？」
「……大丈夫だよ、終わる」
「いまどこ？」
「え？」
「いま。どこにいるの？」
「え、家……」
紅美子は努めて笑ってみせて、
「ウソつけ。職場でしょ？ ……ほーら、忙しいんじゃん。金曜日の夜に研究所にいるんだから」
「……」
「徹がウソつくと大体分かる」
紅美子は視線を移して窓に映る自分の瞳を見て間を少し置いた。「浮気できないね？」
自分を苦しませることを何故か言うと、頭痛がぐいっと紅美子のこめかみを抉るように突き込んできた。
「だって、会いたいんだ」
「なによ、もー。どうしたの？」
「クミちゃんが……、心配で仕方がない。泣いてたんだもん、クミちゃん。十年以上、泣かなかったのに」
月曜日だ。もう随分昔のことのように思える。
「私をそんな冷血女みたいに言わないで」笑い声を聞かせて、「私だって時々泣いてるよ。徹の見てないところで」
「ほんと？ そうなの？」
「コラ。未来の奥さんに向かって失礼だな」
「うん……、ごめん」
紅美子は携帯をなるべく離してもう一本タバコを咥えて火を点けた。
「それに……。徹、ガッカリしちゃうよ。たぶんこの週末、私、生理になる」
「別に、クミちゃんとそれだけのことで会いたいわけじゃない」
ムキになっている顔が思い浮かべられて、笑いに煙を吸い込んで咽せそうになる。
「……タバコ、吸ってるの？」
「まさか。職場だよ？ ……研究成果発表って言ってたやつ、あれいつ？」
「再来週の、金曜……」
「じゃ、その週の土日に会えばいいじゃん」
「……」
「あと二週間、徹もガマンできるでしょ？」
「……クミちゃんは大丈夫なの？」
紅美子は指先から伸びるタバコの先端の火種を見た。ゆっくりと煙が上り、徐々に薄まってホテルの部屋へたなびいている。
「大丈夫。平気じゃないけど」紅美子は吸い口を唇に挟んで吸い込んだ。「……ガマンできる。私、徹の仕事の邪魔者にはなりたくないの」
「……。わかった……」
井上が物音を立てないように紅美子の背後から去り、再び正面のソファに座った。瓶に残っていたペリエを飲み干す。
「じゃ、切るね」
「うん……」
「……あ、徹」
「なに？」
紅美子は井上のほうに視線を向けた。井上は喉仏を動かしながら、炭酸に顔をしかめて紅美子の視線を受け止めていた。電話が終わるのを、くるぶしを膝に当てて広く脚を組み、肘掛けに身を任せて悠然と待っている。
「好きって言って」
「好きだよ、クミちゃん。大好き」
「うん、よろしい」
髭を指で弄りながら肩をすくめて笑っている。
「……」
徹が待っている。紅美子は不敵な態度の井上を眉を寄せて見返しながら、
「私も、好きよ」
と言った。「……じゃあね」
徹が言葉を返す前に電話を切った。短くなったタバコの最後の一口を吸って、ワイングラスに投げ入れる。消火されて色濃く発せられる煙が、ワイングラスの中に充満して渦を巻いていた。