1.違う空を見ている-31
「もしもし? クミちゃん?」
「うん……」
「……」
電話の向こうから大きく息を吐く音が聞こえた。「……心配したよ。連絡とれなくて」
「うん……」
「まだ家に帰ってないの?」
隅田川を並走する高速道路を駆け抜ける車の音が聞こえたのだろう。「いまどこ?」
「……帰ってるところ。家の近く」
「危ないよ」
「……だいじょうぶ」
大丈夫? 自分で言った言葉が自分を苦しめた。
「どうしたの、凄く元気ない。大丈夫?」
同じ言葉を徹から向けられる。紅美子は唇を開き、言葉を告げようとしたが、しばらく後に唇を閉じた。言葉が出てこなかった。今ここで、我が身に降りかかったことを徹に告げるには、二十年という歳月は重苦しく紅美子にのしかかってきた。言葉にしたら、夢に見たあの麗しい光景は、きっと全て消失してしまう。
「……もしもし、クミちゃん? 大丈夫?」
徹の心配する声が聞こえる。
「……。……ごめんね。……ちょっと……。会社の子に付き合って、今まで飲んでたから、疲れちゃって……」
身が切り裂かれそうだ。こんな苦しいウソを何故ついているのだろう。「心配させて、ごめんね」
頬と携帯の間に涙が落ち込んでくる。紅美子からはあまり聞けない謝罪の言葉と、鼻を啜る音を聞いた徹は、
「……泣いてるの? クミちゃん。どうしたんだよ、泣かないで」
と言った。
そんなこと、言わないで。
手で目を抑えても、涙が止まらない。その間も徹はずっと紅美子の名前を呼び続けていた。
「……徹」
「うん?」
「……会いたいよ」紅美子は橋の真ん中でしゃがみこんだ。「すごく……会いたい。離れなきゃよかった」
「クミちゃん……」
声を出して泣かずにはいられなかった。嗚咽が止まらない。「いまから行くよ」
徹はそう言った。そうだ、ここで待っていれば本当に徹は来てくれる。自分を抱きしめて、連れ去ってくれる。
だが、紅美子の中にもう一つの声が聞こえてきた。
どうして、助けに来てくれなかったの?
それを言いたい衝動が紅美子を頻りに襲ってきた。身が二つに裂けてしまいそうだった。やはり電話をするべきではなかった。
「……ごめんね。変なこと言って」紅美子は震えながらも声を抑えて、「大丈夫」
「だって」
「ホント、大丈夫。……会いに行って帰ってきたばっかだから、なんか弱ってただけ」
「……」
「忘れて、今の。……三週間も平気だったのになー。徹がいけないんだ。ずーっとくっついてきたから」
「……俺がいけないの?」
徹が少し笑った。これでいい。
「うん……。こんなんで会ってたら、一年も持たないから。……大丈夫。ごめんね。徹も明日……、もう今日か。仕事でしょ?」
「……クミちゃんも大丈夫?」
「大丈夫。……でも肌ぼろぼろになったらごめん」
「それでも好きだよ」
今は言って欲しくなかった徹の言葉に身が裂け割れ始める。
「……私も」
「うん……」
「じゃ、切るね」
「気をつけて帰ってね。暗い所歩かないで」
「うん」
切断のアイコンを押すと、もう一つの禍難に見舞われていたことに気づいた。携帯電話を持ったまま慌てて裏返したが、左手の薬指には何もなかった。