仮住まい-2
神谷は奈緒子の真意を測りかねていた。素性の知れない男を女一人の別荘へ招くなど理解できないことである。
正直なところ、初めは何か裏があるのではと疑ったほどだ。性質の悪い男でもいて、脅されるのかと思ったのである。
(それならそれでもいい……)
失うものは何もない。
だがその考えはすぐに消えた。表現し難い女の温かさが心に沁みたのである。本来なら一刻も早く立ち去りたい、立ち去るべきなのに、彼女のやさしさに包まれたくなったのだった。彼女は余計なことは言わなかった。
「責任があるのよ……今夜は警備員……」
冗談っぽく、作ったきつい目を見せて言ってくれたことで救われた。
微笑みながら、それは見方を変えれば思いやりの含まれた言葉であった。
何が目的なのか、邪推する気持ちは夕暮れの山霧の中に隠れて見えなくなった。
いつの間にか奈緒子と二人でいることに違和感がなくなったのは、無防備さによるものだったように思う。
(警戒心がない……)
会ったばかりである。本心はわからないが、少なくとも自分を招いてくれたのだからそこに疑いの余地はないだろう。そして、自分の中に、女から遠ざかっていたほのかな想いが揺れ始めていたのもたしかなことだった。
ドライブをして食事を終え、別荘に戻ると、まるで主婦のようにてきぱきと立ち働いた。
「座ってて。すぐに用意するから」
帰りに酒屋に寄ってワインを買った。神谷が、
「熱燗も飲みたいな」
ふと口に出たのは彼女に心を寄せた証しだったといえる。
「ちょっと寒いしね」
奈緒子の笑顔がとても自然で、神谷はふと、彼女と何年も一緒にいたような錯覚を感じた。
「煙草、吸っていいわよ」
「ありがとう……」
「近頃は煙草を吸うのも気を遣うでしょ」
「ええ……煙が嫌いな人も多くて……」
「ここでは自由に吸ってください。父が愛煙家だったから、私はいやではありません。自分では吸いませんが」
彼女の心遣いが胸に沁みわたっていった。
簡単なオードブルが並べられ、
「まず、ワインで乾杯。熱燗はあとでいいでしょ?」
グラスを持つ指、白い手……奈緒子の『女』に目が留まるようになって、改めて見つめると艶やかな肌が眩しかった。
とりとめのない話の後、奈緒子は立ち上がって窓のカーテンを閉めた。外はすでに夜の闇に包まれている。
「此処へ来るのは何年ぶりかしら。父は時々一人で来ていたみたいですけど……」
「うらやましいですね。こういうところでのんびり時間を送れるなんて」
「楽しかったかどうか……父は淋しかったと思います。私も来たかったけど、その頃そんな気になれなくて……」
俯いた項のほつれ毛が肌の潤いを目立たせている。
赤ワインの酸味を含んだ芳醇な香りが胸深く沁みていき、口に含むと体内に熱く広がった。その熱さは紛れもなく彼女への性的高まりであったが、激したものではなく、このまま一緒にいるだけでいいと思うほど抑制の利いた温もりに似た想いであった。
(気持ちがやすらぐ……)
「私、二年前に離婚して、すぐに父が亡くなって……。この別荘、相続で私のものになったの」
「そうですか……。いろいろ、大変でしたね」
「神谷さんも、お仕事のこととか、ご苦労があったみたいですね。……ごめんなさい。刑事さんに聞いたの……」
「そうですか……。かまいませんよ。いまさら隠すことなんてないですから……でも」
神谷は煙草に火をつけて大きく吸い、煙を吐いた。
「それで、同情してくれたんでしょうか……」
「いえ……」
奈緒子の目の動きはやや揺らいだものの、うっすらと笑みを浮かべて神谷を見つめてきた。
「自分と重ねて受け止めたところはあったかもしれません。でも、同情じゃないですよ」
「……はい……ありがとう……」
同情であっても、そうでなくても、いまの神谷にとってどうでもいいことであった。彼女と二人でいる時間が愛おしかった。それだけでいいと思った。
「そろそろ熱燗にしますか?」
「いや、ワインにしましょう」
「レンジですぐできますよ」
「ワインのほうが合ってる気がします」
「合ってる?」
「あなたにも……いまの雰囲気にも」
言ってから照れくさくなって自分で笑った。
「神谷さんって……」
「気障なこと言ったかな……」
「いえ、女性はきっと、嬉しいと思いますよ、そういう言葉って。やさしいんですね」
妻の顔が浮かんだ。
「やさしかったら、離婚なんかしなかったかもしれない……」
奈緒子の微笑みが消えたので、神谷は話を濁した。避けたい話題だと思ったのである。しかし奈緒子に拘りはなさそうだった。
「離婚して、すっきりするかと思ったら、意外とそうでもないものね」
「未練があるとか?」
「それはまったくないのに、なんだろう。疲れがどこかに溜まっているような、晴れない気持ち……」
「ぼくもそうだな。……重いものがなくなって軽くなるかと思ったら、そうでもない……」
「それなのに、心に穴があいたような感じもあるのよ」
「別れた相手が居たところかな」
「そうかもしれないわね……」
「でも、後悔はないな……どっちか一方が悪いわけでもない。自分で選んだんだから」
奈緒子がワインが注ぎ、空になった。
「もう一本あるけど、熱燗、ほんとにいいの?」
「うん、もう充分」
「じゃ、明日の夜にしましょう」
(明日もいていいということか……)
神谷は何も言わず、微笑んで頷いた。