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仮住まい
【その他 官能小説】

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仮住まい-1

 男の顔にわずかながら笑みが浮かんだのは奈緒子が淹れた熱いコーヒーを一口飲んだ後だった。

「美味しい……」
ふっと頬が和んだ。
「コーヒーなんて、何年ぶりだろう」
「まさか、そんな」
「いや、いい香り、久し振りです」
奈緒子はぐっとくるものを感じて男の瞳を見詰めた。
 たぶん、コーヒーを飲む事は何度もあったにちがいない。だが、その香りにひとときの想いを巡らせるとなると、気持ちのゆとりが必要なのかもしれない。

「ご迷惑をかけた上に何から何まで甘えてしまって。図々しく押しかけて……」
「私がお願いしたのよ。ここに一人でいると怖くて」
「勝手にガレージに入り込むやつもいますから……」
「ふふ……何かのご縁かしら」
「みじめでした……」
「忘れましょう」

 男は父のパジャマを着ている。やはり少し小さめだがズボンよりはおかしくない。
「雨に濡れてそのままでしょ。お風呂に入って。着てるもの洗濯しちゃうわ。乾燥機ですぐ乾くから」
男が辞退するのを急かすように浴室に押し込んだ。

 男物の洗濯……。妙に懐かしく、楽しくなった。別れた夫の衣類は義母が洗っていた。
奈緒子が洗ったのは新婚半年くらいまでだったか。柔軟剤のにおいがきついと義母に言われ、手を出さなくなった。


 朝、警察署の駐車場に車を停めて待っていると、出てきた男は建物の陰に姿を消した。(あっちに道があったかしら?)
車を降りて行ってみると喫煙場所があった。
 男は目を丸くして吸いかけの煙草を揉み消して頭を下げた。奈緒子はほっとして微笑んでいた。なぜだか自分でもよくわからない。
「ゆっくり吸ってください。中じゃ吸えなかったでしょ」
そして決まり切ったことのように男に言ったのである。
「一服したら車に乗って」
「車?」
「あなたには責任があるのよ。駐車場にいるから」
怒った顔を作ってから笑顔をみせたものの、内心はけっこう思い切ったことだった。
 どうしてそんな強引なことが言えたのか、信じられないのだが、ともかく男と離れ難い感情が胸に滲んでいたのだった。

(人恋しさ……)
それにしても見ず知らずの、不法侵入の男。だが、
(どうかしている……)
とは思わなかった。
 やつれた表情には見えるが、その中に心に沁みてくるものがあった。女淫の惑いだろうか。お風呂に入って鬚を剃ってすっきりしたら、男らしい面ざしに見えてきた。
(渋い感じ……)
長いこと自分の指しか知らない秘筒にじわっと熱を感じたのはたしかである。


「明日は月曜日ですけど、お仕事は?」
「アルバイトしてますけど、来週いっぱい休みにしました。どうなるかわからなかったんで、電話しました。警察にいるとは言えませんでしたけど……」
「それじゃ、ゆっくりできるわね。私も、明後日まで休みなの。仕事は必要だけど、やっぱり休みっていい。何にもしなくても……」
「そんな時に、すみませんでした」
「もう、いいですよ。こうして来てもらったんだから。私を怖がらせたあなたが、今夜は警備員。いいですね?」
「しかし、こんなことって……」
「いいじゃないの。こんなこと、もう二度とないと思うわよ」
男は申し訳ない顔を続けていた。
「とにかく付き合って……」
それだけ言って、
「お昼、サンドイッチでいいでしょう?作るわね」
男は頷いてから紅葉の始まった庭に目を移した。外光受けて陰になった頬と首筋の辺りに疲れの色を感じたのは先入観による思い込みだろうか。

 午後はドライブがてら鍾乳洞に誘うと、そこへ行ってみるつもりだったと言う。
「雨が降ってきたんで、バスを降りて……。それで歩き疲れてああいうことに……」
「それじゃやり直ししましょう。昨日に戻ったつもりで」
「昨日か……もっと前に戻りたいな……」
男の目が遠くを見るように外に向けられた。

(もっと前……)
奈緒子は自分の過去を振り返って、戻るなら、子供の頃だなと思った。

「お名前、神谷さんでしたわね」
「はい……そういえば、あなたの……」
「真野奈緒子です」
「真野さんですか……いまごろ、失礼しました」
「こちらこそ……」
顔を見合せて笑い、声を出して笑った。

 ドライブは楽しかった。神谷は寡黙だったが、少しも気詰まりにならなかった。夫とドライブをしたことなど記憶がない。思い出すことといえば、義父母と四人で買い物か、墓参り。気か重いことばかりだった。だが、
(もう、忘れよう……)
自分が歩いた道だから消すことは出来ないが、白紙に戻すために別れたのだ。その白い紙に何かを描くことを考えよう。……

 描くといっても、神谷という男を対象として考えたのではない。彼とは稀有な出会いではあったが、それだけのこと。理屈より先に感情が動いて妙なことになったが、ずしりと重いものを感じたわけではない。
(もしかしたら、男と女になるかも……)
密かな期待が蠢くだけだった。昔だったらふしだらなことと打ち消しただろうが、抑え込んできた情欲が離婚から一連の出来事で抑止力を失っていた。

 夕方、イタリアンレストランで早めの夕食を済ませた。
「車だからワイン飲めないの。あなたは飲んで」
「それじゃ申し訳ない。僕も遠慮する」
「じゃ、帰ってから」
神谷の笑顔が少しずつ明るさを増してきていた。


 
 


  


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