その２ ちちろのむしと別れけり-7
「お嬢さんがお鈴さんに激しい嫉妬を抱いていることを知った旦那様は、その時はそれ以上何もおっしゃいま せんでした。ところが、あくる日、お部屋に一人でいらっしゃった旦那様がお鈴さんの描かれた錦絵を見ながらこうつぶやいたそうです。 『お峰には可哀想だが、この手習い小町のお鈴さんが恋敵じゃあ、とうてい勝ち目はないな』廊下でそのつぶやきを立ち聞きしたお嬢さん が障子を勢いよく開け放つと、旦那様は慌てて錦絵を背中に隠しました。異様な声を上げて旦那様につかみかかったお嬢さんは、錦絵を ひったくるやビリビリッと引き裂き、足でさんざん踏みつけたそうです」
瑚琳坊が眉をひそめ、お鈴が半歩後ずさった。
「それからです、お嬢さんが思い詰めた顔をするようになったのは……。そして、あれは野分の荒れ狂う夜で したか、お嬢さんが店の裏口から外へ出るのを見かけました。こんなひどい天気の、しかも夜更けに、いったいどこへ行くのかと思いまし たが、その時手前はひどく腹を壊しておりまして、慌てて厠へ駆け込んだのです。……そうして、その夜、三度目の厠から出てみると、お 嬢さんが帰宅していました。何やら大声で、しきりに喚き立てていましたので、こっそり様子を窺うと、返り血のようなものを着物に付け たお嬢さんが、こう叫んでいたのです。『お鈴は虫の化け物だ！』と……」
申し訳なさそうにお鈴を見やる佐吉の前で、彼女は身体を固くしていた。
「もちろん世迷い言だということは誰にも分かりましたが、喚き続けるお嬢さんの目が普通ではありませんで した……。その時から、お嬢さんはおかしくなり始めたのです。そして、今も突然、家を抜け出し姿が見えなくなったので、店の者が手分 けして捜していたというわけなのです……」
「そうかい、分かった。有り難うよ、よく話してくれた」
瑚琳坊は佐吉の肩に手を当てた。
「引き留めて悪かったな。……お峰のやつ、あの様子じゃあ、へたすると川に落っこちるかも知れねえ。早く 行ってやんな」
佐吉は二人に頭を下げると、一目散に走っていった。
「…………」
お鈴は強張った表情で地面を見つめていた。
「気にすんなよ。お峰がああなったからといって、べつにおまえのせいじゃないんだから」
「でも……」
「気にすんなって。それより早く帰って湯屋にいきてえな。身体が埃っほくて、しょうがねえぜ」
私塾に帰り着いたのは木戸が降ろされる直前の夜更けだった。にもかかわらず、彼等を見かけた近所のおか みさんの素っ頓狂な声で長屋のみんながわらわらと出てきて二人を取り囲んだ。「突然いなくなって心配した」とか「いったいどこへ行っ ていたんだ」とか、しゃべくる声が雨霰と降り注ぎ、瑚琳坊はいちいち返答するのに往生した。
「お鈴さん、旅先でたっぷり可愛がってもらったかい？」
という声に彼女は茹で蛸のように赤面し、袂で顔を覆った。瑚琳坊はざわめく輪の中で皆に両手を合わせ、
「と、ともかく明日あらためて挨拶するから、今夜はこのくらいで勘弁してくれ」
米搗きバッタのごとく頭を下げ下げ、ようやく家へと帰り着いた。