その1 ちちろのむしと出会ひけり-16
修行を積んだ剣客ならば、その夜の教場の外の気配を感じ取ることが出来ただろう。だが、瑚琳坊は一介の手習 い師匠だった。常に捕食者の危険に身を晒されている虫ならば、入り口の腰高障子の向こうにゆらめく嫉妬の炎に気づいただろう。しかし、今 のお鈴は人間の性の営みの濃厚さに心を奪われていた。
「やはり、……やっぱりあいつらは乳繰り合っていた。よくも……、よくもこのあたしを謀(たばか)ったね!」
お峰の物凄い形相が闇に浮かんでいた。その夜は野分の風が強く吹き、お峰の髷を掻き乱し、ほつれた髪の毛がお どろおどろしく舞っていた。風は腰高障子を盛んにギシギシと揺らしたが、折しも瑚琳坊がお鈴を組み敷いて床がギシギシ鳴るほどに腰と腰と を打ちつけ合っていた。忘我の二人は風の音など耳に入らず、お峰が障子を蹴倒して飛び込んできても、初めのうちは全く気がつかなかった。
「きいぃーーーーっ!」
枕元でけたたましい金切り声が上がり、ビクリとした瑚琳坊が振り向くと、そこには般若の面があった。それがお 峰のおぞましく悋気に歪んだ顔だと分かるまで、しばしの間があった。
「瑚琳坊! この、くそ坊主!」
女とは思えない力で彼の脾腹を蹴り上げると、悶絶して壁際に転がった瑚琳坊を後目に、お峰は全裸で打ち震える お鈴にむしゃぶりついた。頬を引っ掻き、髪を引っぱり、細いお鈴の首に両手をあてがうと、満身の力を込めて締め上げた。苦悶し、赤く膨れ あがるお鈴の顔。瑚琳坊は脇腹を押さえながらもお峰に体当たりを食らわせた。もんどり打って転がったお峰は、勢い余って箪笥にしたたか身 体を打ちつけた。そこへ上からボトッと何かが落ちてきた。少し錆の浮いた草刈り鎌だった。土間にあるべき物がどうしてそこにあったもの か。ともかくお峰はその鎌を握りしめると、異様な目の色でゆらりと立ち上がった。瑚琳坊を奪われた憎しみに心が凝り固まったお峰は完全に 我を忘れている。ブルッと身震いし、男のような底深い唸り声を発すると、瑚琳坊を突き飛ばし、獣の素早さで恋敵に打ちかかった。
「ひいぃーーっ」
お鈴は悲鳴を上げ、とっさに身をかわす。鎌の刃はお鈴の肩をかすめ、畳に食い込んだ。お峰、すかさず鎌を抜き 取り横殴りに刃を振るう。お鈴の膝がザクリとえぐられ鮮血が滴る……かに見えた。だが、傷口から滲み出たのは薄い琥珀色の液体だった。そ して、膝を押さえて激痛に身をよじるお鈴の片脚が、見る見るうちに筋張っていった。
「な、なに!?」
お峰は我が目を疑った。筋張った脚は、あろうことか、硬そうな虫の脚へと変貌していったのだ。
「う、うわあああああ!」
お峰の叫びが上がり、思わず投げつけた鎌の柄がお鈴のひたいを打ちすえた。うつむいて身体を震わせるお鈴。や がて顔を上げると、そのひたいから二本の触角がゾロリと飛び出したではないか。憎悪を押しのけ、恐怖がお峰を抱きすくめた。
「ぎゃああぁーーーっ!」
魂消るような絶叫を発し、お峰は這いつくばって土間へと逃げた。桶をひっくり返し、水瓶に取りすがって、その 瓶ごとゴロリと横転した。全身濡れねずみとなったが、尻餅をついたまま、お峰はおののく顔をこちらに向け、盛んに足をばたつかせて後ずさ りした。
「化け物……、化け物!」
土間から外の闇に転がり出ると、お峰はあっちにぶつかり、こっちにぶつかりして、裾を乱して逃げ去った。
部屋の中では、お鈴が膝を抱えて苦悶に打ち震えていた。