未亡人遅咲き淫花-1
（１）
軽井沢の駅前でタクシーに乗り、
「真崎竜三さんの別荘」と告げると、運転手は愛想よく応対して車を発進させた。
「そう言っていただければわかると思います」
久美子に言われてはいたが、迷うことなく即座に行き先が伝わったことに片倉は驚いた。周辺にどれだけの別荘があるのか知らないが、相当な数にのぼるだろう。ホテルや教会など観光客が訪れる場所ならともかく、それに、著名な文化人や政治家でもない一介の市井人の別荘である。
資産家ではあるらしい。渋谷の自宅は思わず足が竦むほどの豪邸だし、都内に十か所以上のビルを所有しているとも聞いた。
それにしても軽井沢でなぜ有名なのか、運転手に訊ねて理由がわかった。
真崎竜三は久美子の祖父で、すでに亡くなって久しい。
「あの方のおかげで町の公共施設が充実したんです」
寄付の総額は十億を超えるという。この町の出身でもなく、何らかのゆかりがあるわけでもない。
「ある時期がきたらここに定住するつもりだったらしいですよ。だからいずれお世話になる町に少しでも貢献したいと。すごい人ですよ」
奇特な精神は竜三の息子、久美子の父にも受け継がれ、現在も続いているという。
「大金持ちとはいえなかなか出来ることじゃないですよ」
久美子は真崎家の一人娘である。何不自由のない環境で育った彼女はいかにも『お嬢様』の雰囲気を湛えてはいたが、とりすましたところのないおっとりした性格であった。気位の高さを見せたり、人を見下したりすることは微塵もなく、むしろ謙虚で控えめな印象である。使用人に対しても丁寧で穏やかな言葉をかけるのを聞いていると、片倉は自分の心が癒されるような気持ちになったものだ。
彼女との出会いは偶然である。二年前の夏、仕事帰りにあまりの暑さに立ち寄ったホテルの喫茶コーナーで休んでいると、
「指輪を落としちゃったんです」
見ると、女性が申し訳なさそうにフロントの係りに事情を話している。
やり取りを聞いていると、ロビーにあるグランドピアノの中に入り込んでしまったらしい。彼女はピアニストで、今夜ミニコンサートがあるのでピアノの調子を確認していたようだ。その時、外した指輪をうっかり落としてしまったという。
「弾くとカタカタ音がするんです。困ったわ」
「上から取れませんかね」
「それが奥へ入ってしまって見えないんです」
それから専属の調律師に電話をしていたようだが連絡が取れない。そこで片倉が申し出た。彼は調律師である。
蓋を外し、蝶ネジを取り、鍵盤と一体になったアクション部を引き出すとロビーにいた客が物珍しそうに集まってきた。ふだん見る機会のないピアノの内部がそっくり出てきたので驚いているようであった。
指輪を取り出して元通りに組み立てると、恐縮する関係者とピアニストが謝礼をと言うのを断って早々に外へ出た。手間というほどの作業ではない。
表へ出たところで声をかけてきたのが久美子である。
思わず見とれるほどの美しさであった。面立ちも整ってはいたが、美の源というなら、たおやかな気品あふれる女らしさといった方がいいかもしれない。楚々とした物腰は明らかに住む世界が違う雰囲気を漂わせていた。
家のピアノの調律を考えていたところだったという。
「たまたま先ほど……」
「ああ……」
『ギャラリー』の中にいたということである。
名刺を渡したあと、片倉は何度も振り返って後ろ姿を見送った。
翌日さっそく電話がきて、訪問したのが一昨年のことである。広壮な邸宅には驚きを通り越して呆れたものだ。東京の真ん中にこれほど広い一戸建てがあることが信じられなかった。まるで先進国の大使館のようだった。部屋数はいくつあるのか。ピアノ専用だと通された部屋を見て片倉はもう笑うしかなかった。そこだけでも彼のマンションより広い。
「三年ほど調律していませんの」
齢の頃、三十代後半かと思われたが、瑞々しさを湛えた肌の潤いからするともっと若いかもしれない。どちらにしても自分と同年代だろうと思った。
「最近また弾きたくなって」
ピアノはスタインウエイのセミコンサートグランドである。数千万はする高価なもので、まず専門家以外に所有するのは稀であろう。久美子は音大を出たわけでも目指したこともないという。
終わってから一万五千円の料金を請求すると、
「どうぞ、このまま……」
二万円をよこし、さらに交通費として別に一万円を包んでくれた。こんな客は初めてであった。
「今度はいつ頃調律したらいいでしょうか？」
訊かれて、本当は一年後で十分なのだが、おずおずと半年後にした方が理想ですと答えるとすんなり約束ができた。
（いい客を掴んだ……）
その気持ちは金よりも美貌に魅せられた歓びのほうが大きかった。