初仕事-3
◆
今年初めての出勤となる薄野亜紀(26)は、そのビルのエレベータを3階で下り、事務所のドアを開けた。
「おはようございます」
「やあ、亜紀ちゃん」
ロマンスグレーの社長が珍しく彼女に近づいてきた。
「あけましておめでとうございます。社長」
「うん。おめでとう」
社長の佐藤は穏やかに笑いながら少しだけ頭を下げた。
「今年もよろしくお願いします」
そう言って頭を上げた亜紀に、佐藤は小さな声で言った。「亜紀ちゃん、ちょっと社長室まで来てくれないかな」
「え? は、はい……」
亜紀は、佐藤の後について事務所の机の間を歩いた。窓際に座っていた営業部長の小林がその姿を舐めるように目で追っているのに気づき、亜紀は少し焦ったように足を速めた。
その夜、亜紀の会社の新年会が街の居酒屋で開かれた。
社員数20人程の小さな会社だったが、このところの不況の波をかぶり、業績はなかなか上向きになっていなかった。
亜紀は冴えない表情でその会が終わるのを何度も時計を見ながら待っていた。同僚が話しかけても、彼女はあまり明るい顔をしなかった。当然話は弾まず、彼女がハンカチで口元を拭いながら一礼すると、杯を持ってきた上司や同僚達はそそくさとその場を立ち去るのだった。
10時を回って、ようやく宴会が終わった。
居酒屋を出た所で、小林が亜紀に近づいてきた。ムッとするような酒の匂いをぷんぷんさせて、その頭頂の薄くなった小太りの男は亜紀の横にぴったりと立ち、耳に口を寄せた。
「社長にリストラの話、されたんだろう?」
亜紀ははっとして小林の顔を見た。その男は不敵な笑いを片頬に浮かべて、血走った目を亜紀に向けた。
「私が何とかしてあげようか?」
「えっ?」
「職を失うのはつらいだろう?」
「力になって下さるんですか? 部長さん」
小林は肩をすくめた。「お安いご用だよ」そして亜紀の背中を軽く撫でた。
「ちょっと歩こう。人には聞かれたくないんでね」
小林は人目を憚るように辺りを見回し、一人で行動しているように装って、先のコンビニの方に向かって歩き始めた。
ちらりと目線だけを送ってきた小林の向かった方に、亜紀も足を向けた。
亜紀は小林の後をついて歩いた。
「あ、あの、部長さん、どこへ?」
「いいから着いてきなさい」
小林は暗く狭い路地に入っていった。
急に小林が振り向いたので、亜紀はびっくりして足を止めた。
「薄野クン」
「は、はい……」
「君を会社に置いておく代わりに、僕の言うことを聞いてくれるね?」
まるで他に選択する余地はない、と言わんばかりの強引な口調だった。
「え? ど、どういうこと……」
小林は薄気味悪い笑みを浮かべて、亜紀の腕を掴んだ。
「あっ!」
「僕に今夜つき合ってくれれば、君が会社にとどまれるようにしてやろうじゃないか」
亜紀の背中を冷たいものが駆け抜けた。
「や、やめてください!」
亜紀は叫んだが、小林はさらに強く彼女の腕を掴んだ手に力を込めた。そして、身体を自分の方に引き寄せると背中にもう片方の腕を回した。
「いやっ! やめて!」
「言うことを聞くんだ! 会社をクビになってもいいのか?」
小林の顔が、亜紀の眼前に迫った。