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寒椿
【その他 官能小説】

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寒椿-1

(1)


「エニワさんという女の人から電話があったけど……」
実家の母親から連絡があった。
 エニワ、という名を聞いて、私は過去からの知人を片端から思い出してみたが、思い当たる人物は浮かんでこなかった。

「大学時代の友人が亡くなったのであんたと連絡を取りたいっていうの」
さらに学生時代に絞って考えてみた。やはり記憶はない。
「やたらに番号を教えるとまずいでしょう?だからあちらの電話番号を聞いておいたけど」
私は取りあえず番号を控えた。
「あのね……」と。母親は私の妻の名を口にして、
「疑われるようなことはしないように気をつけなさいよ」
女からの電話というだけで先回りした心配をしていた。

 その頃の女友達を何人か思い出してみた。エニワという名前は知らないが、おそらく結婚して姓が変わったというところがもっとも考えられることだろう。
 それにしても誰なのか特定することはできない。わざわざ知らせをよこすくらいだからある程度親しい関係であったのだろう。

 結婚後、当時の女友達と付き合いはなかった。個人的な接触だけでなく、仲間とともに会うことも、儀礼的な年賀状ですら一切交流はなかった。その頃からの時間は長く、思えば四半世紀を超えていた。


 翌日、仕事の合間に電話をかけてみた。呼び出し音が二度、三度と鳴る間、構えた緊張を感じた。

「エニワです」
女の声が応え、私は一呼吸置いて自分の名を告げた。一瞬の間があった。
「しばらくです。私、中村です。中村玲子です」
それを聞いて私は了解した。アルバイト先の職場とともに、吉田知恵子の顔が脳裏に浮かんだ。

「すみません、わざわざ。ごめんなさいね。ご実家に電話したりして」
玲子は挨拶よりも何度も詫びた。
「昔のお知り合いなのにね。……迷ったんですけど……」
そして、
「知恵が亡くなったんです」
声を低くして言った。
(知恵子……)
玲子と知恵子はいつも一緒だった。たしか中高、短大まで同級生だったと聞いたことがある。

 死んだのは半年前だという。悪性の腫瘍が彼女の命を奪ったのだった。
遠い記憶がいくつか過って知恵子の面影が駆け抜けていった。
 だが、昔のことだった。それは遠い、昔の話だった。

「なんでいまさらと思うでしょうね……」
玲子は私の想いを見透かしたように言ってから、
「いま、大丈夫なの?」と気遣った。
親しかった当時の言葉使いになっていた。
「いま、会社から。休憩中だから」
そうではなかったが、仕事に支障のない時間帯で人も少なかった。

「考えたんだけど……」
改めて話し始めた玲子はやや言い淀んでいた。
「やっぱり、知恵が喜ぶのはあなただと思って。……ご家庭もあるでしょうに、かけにくかったんだけど……」
話し方にはためらいが感じられた。
「あのね」と弾みをつけるように言った。
「知恵はずっと独りだったの。結婚しなかったの」
玲子はそこまで言ってから一息つくように言葉を切った。
「一度も?」
「ええ、一度も……。話はいくつもあったようだけど……」
玲子は続けた。
「結婚しなかったのは彼女の意思よ。私にも理由ははっきりわからないわ。でも、知恵が男の人とお付き合いしたのはあなたが初めてだったの。そして、親しくという意味では最後だったかもしれない。好きだったのはあなただけだったと思うのよ。だからといって、どうしようもないことだけど……」
玲子が話している間、私は黙って聞いていた。相槌も打たなかった。
「だから、ご迷惑とは思うんだけど、一度でいいから知恵にお線香をあげていただけたらと思ってお電話したの」

 私は遠い日の知恵子との最後の夜を思い出していた。彼女が見合いをした数日後のことで、たぶん一年以内には結婚する予定だと言っていた。国立大出の理工系の人だから私に合うかしらと笑っていた。その顔をいまでも憶えている。堅実でいいんじゃないか。私はそんなことを言ったと思う。ホテルのベッドで煙草をくゆらせ、彼女の乳房を弄いながら……。
 駅で別れる時、
「じゃあね……」
いつもと変わりなかったが、必ず直後に振り向いて手を振る知恵子がその時はそのまま俯いて歩いていった。日差しが眩しい日曜日の朝。一晩を共にしたのは初めてであった。それが別れだった。

「結婚が決まってたんじゃないの?」
「そう、東大出の人ね。でも、すぐだめになったの。相手の人とも何度かデートしてたんだけどね」
「何か、あったのかな……」
「あったんでしょうね……」
その言い方にはどこかきつい調子が含まれて感じられた。
「知恵がうちに来て泣いたもの。あんなに泣いた知恵を見たのは初めてだった」
私はなぜか目の前に眩しさを感じて目を細めた。
 
 玲子の溜息がきこえた。
「理由を訊いても言わなくてね。何でも話せる親友だったのに……」
「よほど相手の人を好きだったのかな……」
「ちがうと思う」
玲子ははっきりと言った。
「そんな涙じゃなかった。それだけはわかる。とても辛いことか何か、あったのか、言われたのか。わからないけど、でも、傷ついた涙だったと思う」
玲子の語調はだんだん強くなってきて、怒気さえ感じられるようになった。

「ごめんなさいね。会社なのに」
事務所を見回すと、一人二人と帰社した社員が増えていた。
 私は声を落して、
「お線香といっても、彼女の家には行きづらいな」
「お墓が谷中にあるの」
そして寺の名を口にして、
「もしよかったら、ご一緒しません?ご案内がてら」
話の進め方にためらうことも出来ず、日時を決めるべく手帳をめくり始めていた。


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