懐疑-8
「地方の営業所でトラブルがあってね。本社から出向しなければならなくなったんだ。申し訳ないが、君が行って処理して欲しいのだが」
「分かりました、いつでしょう?」
「来週の金曜日からなんだがね」
「来週ですか……」
視線を泳がせ思案する様子を見せた。
「問題があれば遠慮なく言って欲しい」
「ちょうど娘の修学旅行とぶつかるもので」
「それは間が悪かったね。そうか、困ったな。独りになってしまうからね、奥さん」
語尾で声がかすれたので咳払いでごまかした。娘の修学旅行のことは奈津子から聞いていて知っていた。
「いや、そんなこと言っている場合ではないですから、むろん行きます」
「そうかね。急で申し訳ないがお願いするよ。君だったら難なく解消できるのでね」
トラブルの詳細を佐伯に話した。
「帰りは週明けになりそうですね」
「そういうことになるだろう。君だったら月曜日には戻れると思う」
佐伯の肩を叩いた。
「ほんのしばらくの間だが、奥さんには謝っておいてくれるかい」
田倉は笑いながら言った。
「仕事ですし、そんな必要はありませんよ。家内は一人でも問題もありませんし、むしろ羽を伸ばせてよいのでは」と言って笑い、「そういえば部長も家内と会っていますよね。ほらあのスーパーで」と続けた。
「うん、もちろん覚えているよ。美人の奥さんのことは一度見たら忘れないさ」
「ははは、お上手ですね」
「そんなことはない、本当のことだよ。さて……」
視線を落として腕時計を見た。
「すまないがその資料をわたしのデスクに置いてくれないか。若しくは下村君に渡してくれても構わない。行くところがあるのでわたしは失礼するよ」
「承知しました。行き先は○○工場ですね。相変わらず部長はお忙しい」
何とかやりくりして奈津子を呼び出すつもりだったが、今日はさすがに無理だ。
「いや、そんなことはないよ。君たちが一生懸命やってくれているから、これでもだいぶ楽にはなっているんだ。特に君や石橋君は本当によくやっている。善し悪しは別として君らのような仕事一筋の社員が少なくなったからね。時間を惜しまず仕事をする姿勢には頭が下がるよ」
後ろめたさから佐伯を褒めちぎった。もちろん本心ではある。
「ははは。持ち上げすぎです。でもみんな田倉部長を尊敬しているから必死でついていくのです」
「ありがたいことだが、あまりこそばゆいことを言わんでくれ」と、むろん悪い気はせず、「ところで石橋君は君の言うとおり本当に勉強家だな。彼の豊富な知識には脱帽したよ」表情を引き締めた。
「そうでしょう、そうでしょう」
佐伯は自分のことのように喜んだ。
「彼にたくさん教えられたよ」
「ええっ、本当ですか?」
「ああ、本当さ。レクチャーを受けたのはわたしの方なのだよ、ははは」
「それは驚きですね」
佐伯は目を丸くした。
会議室のドアの取っ手に手をかけたまま振り返り、「ああ、そうだ、奥さんには毎日電話をしてやりなさい。いいね」と何気ないそぶりで言った。これを切り出すタイミングを見計らっていた。佐伯は笑いながら指で丸を作った。
トラブルは事実だが、別の部署の社員が行く予定になっていたのを職権を乱用し、強引に佐伯と入れ替えたのである。
かなり前から娘の修学旅行のことは知っていて、こんな策をぼんやりと考えていた。しかし実行する可能性はきわめて低いと思っていた。実行を決心したのは、確証はないが石橋が我々の不倫に気付いていると、限りなく黒である印象を得てからだ。そうであるならば、どのようにして気付いたのだろう。社内でずっと観察されていたのだろうか。何のために? それほど挙動不審だったか。下村沙也加から漏れるはずがないので、いまだ未練のある奈津子をつけていた可能性もある。思わぬ伏兵に肝を冷やしたのであった。ついでに石橋もコンビで出張させようかと考えていたが、あまりにあからさまなのでやめにした。石橋には佐伯の出張は秘密にしようと思っているが、できるかどうか。
佐伯を含め携わっている社員が忙しいのは、奈津子との不倫を最優先に考えて行動する田倉のせいでもある。仕事が貯まっていくのは必然であった。そんなことは承知だが、制御することはできない。
奈津子にはすぐにばれるだろうが、計画を実行するまでは知られたくない。どのような態度に出るかも手に取るように分かる。肉体のみならず性格さえも知り尽くしている自分に悦びさえ感じていた。
当初は佐伯と接するたびに罪悪感を感じていたが、今はさほど感じていない。地位を利用して手際よく不義を行うことに高揚感さえある。性格が変わったわけではない。もともとこんな男だったのだ。
金曜日は会社を休む。そのことはまだ秘書の下村沙也加にも伝えていない。この地位であれば何とかなる、何とでもする。
佐伯は月曜日には帰ってくるだろう。娘が修学旅行から帰るまでの、ちょうどよい量の業務を探しだした。田倉も月曜に出勤する予定だ。それまでずっと……。
フロアを横切っていくと、女子社員と立ち話をしている下村沙也加の後ろ姿があった。彼女の見事なヒップラインを見て、唐突に『調教』という文字が脳裏に浮かび、息苦しさを感じた。