投稿小説が全て無料で読める書けるPiPi's World

孤愁
【その他 官能小説】

孤愁の最初へ 孤愁 1 孤愁 3 孤愁の最後へ

孤愁-2

「ごちそうさまでした。またお会いしましょう」
駅で別れ際、女が言った。有村はいったん歩き出してから彼女を呼び止めた。
「今度、いつ行きます?」
女は柔らかな笑みをたたえながら、
「合わせますよ」
「いつでも?」
「はい……」
有村は思わず一歩踏み出していた。急に心が騒いだ。
「月曜はどうかな」
明日と言いたいところを抑えて訊いた。
「……いいですよ」
「じゃあ、何時にしよう」
彼が考えたのは時間よりも場所であった。
(二人きりで話がしたい……)
とっさに適当な店が浮かばない。

「七時にあの店にいるようにしましょうか」
「いや、他の、居酒屋かどこかにしない?」
女はちょっと怪訝な顔を見せて、
「いいですけど……」
「理恵は中学の同級生なんだ」
「そうなんですか」
「だから、言いたいことを言うからやりにくくて」
どう解釈したのか、女は俯いて笑いをこらえていた。
「じゃあ、他にしましょうか。どこか知ってます?」
「探しておきます。月曜までに」
「それじゃ改札で七時」
「おやすみなさい」

 まだ名前も知らない女を見送りながら、有村は胸の奥が疼くようなときめきを覚えていた。甘く、妖しい、それはすっかり忘れていた若き日の息吹に似ていた。弾ける女の姿態に胸躍らせた青春時代の湧きあがる感情の片鱗が甦った感覚があった。
(携帯の番号を訊いておくんだった……)
電車に乗ってから思ったが、
(すんなり教えないか……)
酔いがかなりまわっていて、彼は両手で吊革につかまった。


(2)


 その居酒屋は『純』とほど近い、一つ通りちがいにあった。
和風の雰囲気を作った店で、席はそれぞれ簾で仕切られていて、周りの視線が気にならないようになっている。大衆向けではあるが、そこそこの料理を出すので料金設定も相応で、従って若い客は少なくて落ち着いていた。

 約束の時間より早めに駅に着いた彼は、ラッシュの人波にさりげなく目を配り、さりとて人待ち顔を隠しつつ平静を装って改札からやや離れたところに立っていた。
 学生時代、心を寄せた女を待った時の揺れ動く想いが思い出される。
(もう来る頃、次の電車か……)
もう二度と味わうことはないと思っていた昂揚感はとても温かく、潤いをもって胸に沁みてきた。
 有村を認めた女は、ふっと口元を弛めて近づくと、丁寧に会釈をした。
「先日はごちそうになりました」
瞬間、春風に包まれた心地を味わった。木枯らしの季節に花の香りが香った気がした。

 ジョッキを合わせて改めて挨拶を交わしたあと、女は自ら名乗った。
「及川美貴といいます」
「どういう字を書くの?」
「美しい、に、貴い……。名前負けしてます」
「いや、十分対抗してますよ」
言ったことが褒め言葉になっているのかわからなくて、有村はビールを飲みながら言葉を濁した。
 美貴は三十代だろう。決して美人とはいえない。かといって彼の『水準』から見て不美人ではない。目鼻立ちのどこにもさしたる特徴はなく、表現のしようのない印象がある。見方を変えればそれなりに整っているのかもしれない。
 髪はストレートで肩にさらりとかかり、体は細めで、セーターを通して窺える胸の膨らみは小さいほうである。
 一つ一つを見ればときめきを覚える女ではないのだが、どこか力が抜けたような、風の向くまま生きているような、自由な雰囲気が感じられた。惹かれたとすればそれが魅力だっただろうか。それに何より、彼からみれば娘といっていいほど若いのである。

 美貴は何を訊いてもはぐらかすことをしなかった。答えを考えることはあっても気をもたせる言い方はせず、静かな物言いなのにはっきりとしていた。
 齢は三十三歳だという。これは自分から言ったものである。
「若い女性がおじさんに付き合ってもらっちゃって申し訳ないな」
「若くないですよ。厄年ですから」
齢の割に古いことを言う。唇を閉じてはにかむように笑うのが癖のようだった。
「ピアノを教えているんです」
「それは優雅なお仕事だ」
「そんなことないんですよ」
自宅でも教室を開いているが、近頃は生徒が集まらなくて出張もしているのだと話した。

 ひとしきりピアノの話題のあと、『純』の話になった。なぜあの店に行くようになったのか、訊いたのである。
「理由って特にないんですけど、強いていえば『純』ていう名前かしら」
「名前……」
「スナックってわりとママさんの名前とか、男性を意識したものが多いでしょう。だから、何となくいいかなって」
「そういえばそうかな。男の客がほとんどだからそうかもしれないな」
「それと、純粋とか純情とか、私にないものだから惹かれたのかしら?」
「不純の『純』もある」
有村が言って二人で笑った。
「一人で入りずらくなかった?」
「それはありますね。他の店にも行ったけど、一人ってわかると何となく不審な目で見られたり、話をしてくれなかったり。あとから知ったけど、男の人を誘う目的で来る女性がいるみたい。でもあの辺は環境がいいし、良心的な気がしました」
たしかに『純』の通りは明るい場所で、風俗が立ち並ぶ怪しげな一画は駅の反対側にある。

「理恵さんが感じがよくて、お店も落ち着いてるし」
「暇だからね」
「そんなこと言って……ふふ」
「あいつは大らかだからな」
「気さくで……」
「あいつね、中学の時スケバンだったんだ」
「本当ですか?」
有村が答えず含み笑いを見せたので、美貴は冗談と受け取ったようだが、実際そんな存在ではあった。
「こんど言いつけますよ」
「それはまずいな」
「きっと怒られますよ」
 和やかになって美貴はよく飲んだ。肌は白いほうであるが、やせ形で肉感的とは言い難いし、瑞々しさも褪せかけている。それでもほんのり赤みがさした胸元を見ていると女の芳香が漂ってくる気がした。


孤愁の最初へ 孤愁 1 孤愁 3 孤愁の最後へ

名前変換フォーム

変換前の名前変換後の名前