投稿小説が全て無料で読める書けるPiPi's World

孤愁
【その他 官能小説】

孤愁の最初へ 孤愁 0 孤愁 2 孤愁の最後へ

孤愁-1

(1)


 有村は店のネオンを見上げて立ち止まった。スナック『純』の扉を開けるのは久しぶりである。たまに会社の帰りに思い出して顔を出そうかと迷うこともあったが、途中下車するのが億劫で、いつも座席に身を沈めたまま通り過ぎていた。

 この日は課内の飲み会があって、すでに酒は入っている。時計を見ると九時前。ちょっと立ち寄るにはいい時間だ。だが、
(混んでいたら、やめよう……)
騒々しい雰囲気は嫌だ。一息つきたい気分だったのでそう決めて電車を降りた。

 酒の席に理屈はいらないとは思うが、部下と飲むのはやはり疲れる。ここ数年特に感じるようになった。話題もまったくかみ合わず、意味のわからない言葉が多くてついていけない。彼は穏やかな笑みを絶やさず座を見守っているだけである。
 一時間……が、いい頃合いである。長々といても煙たがられるし、カラオケに付き合っても苦痛でしかない。早々に退散したのだった。しかし立場上、黙って帰るわけにはいかない。幹事役の部下に会費のほかにそっと一万円を渡すと、彼は大仰に恐縮して仲間に伝える。注目の瞬間だ。
「課長にカンパいただきました!」
拍手喝采が起こって苦笑しながら酒宴に背を向けた。
「カラオケ代浮いた」
女子社員の声が聞こえた。
 毎度のことである。自分たちの都合で声をかけてくる。細かいことは考えたくないが釈然としない思いが残る。

(寄っていくか……)
『純』……。塞いだ気持ちでもあったし、気まぐれでもあった。


「あら、珍しい」
理恵がカウンターの中から笑いかけてきて、並んでいるママも軽く会釈を送ってきた。
「お好きなところへどうぞ」
四つあるボックス席には客は一人もいない。相変わらず不景気のようだ。いつだったか、あまり客が来ないので隔週で土曜日を休みにしたと聞いたことを思い出した。今日は金曜日にもかかわらず客はカウンターに女性客が一人いるだけである。

「何にする?」
おしぼりを手渡しながら理恵が訊く。
「ビール」と答えて、
「花金なのに空いてるね」
「さっきまで満席だったのよ。タイミングよかったね、有村くん」
けらけら笑った。冗談にするくらい暇なのだろう。

「最近のお客さんは来てくれても帰るのが早いわ」
その傾向はあると思う。だいぶ前から接待も減っているし、役所関係の利用もめっきり少なくなったようだ。
「元気そうだな」
「おかげさまで何とかやってるわ」
理恵は中学の同級生で、『純』のホステスになって二十年ほどになる。それ以前にいくつかの店を経て、自分でも店を持ったこともあったらしいが、うまくいかなかったと聞いた。詳しいことは知らない。
 地元で飲むことがほとんどなかった有村はこの店も、理恵がホステスをしていることも知らなかった。四十二歳の時に『厄落とし』と称したクラス会が開かれて再会したことで初めて知ったのである。

「仕事は順調?」
ビールを注ぎながら微笑む口元はやさしく花開く。同級生だと気遣いもいらないのでほっとする。
(これから時々来よう……)
彼女のグラスにも満たし、乾杯しながら思う。

「あと五年で還暦よ。有村くん、どうする?」
言いながらまた笑う。陽気な女である。
「それに定年だ」
「そうよね。昔だったら今年が定年。いやだわ。老人の世界だわ」
「気にしないことだよ。昔と比べたら俺たちはまだ若いんだから」
言いつつ、言葉に説得力がないのが自分でもわかる。体や気力に明らかな衰えを自覚しているのだから仕方のないところだ。理恵も同調して頷いたものの、彼の空元気を見抜いたように溜息をついて煙草に火をつけた。

「あのね……」
少し顔を寄せてきた。
「粘ってたけど、去年、とうとう上がっちゃった」
生理のことである。
「へえ、どんな気持ち?」
「うっとうしいのがなくなってせいせいしてる。けど、どこかでちょっとね。でもまあ、もうおばあちゃんだからね」
彼女は二度結婚していずれも別れている。娘が一人いて、数年前に孫が生まれたと喜んでいた。
 有村には子供がいない。結婚して三十年、子供を諦めて二十年が経つ。夫婦で話し合って決めたものである。不妊治療の選択肢もよぎったが年齢を考えた結論だった。

 何気なくカウンターの女性客に目をやると、理恵が声を落として、
「最近よく見えるお客さん。一人で来るの」
「女一人って、あまりいないんじゃないの?}
「たまにはいるけど、いつもっていうのはね」
このところ週に二、三回は来ているという。
 スナックはやはりホステス目当ての男性客が多い。
 特に気になったわけではないが、他に客がいないのでつい視線が向いてしまう。
「気になる?お話できるか伺ってきましょうか?」
理恵がいたずらっぽく笑った。

 女は及川美貴といった。名前を知ったのは二度目に会った時で、この夜は名乗ることもせず理恵も含めてカラオケ大会となった。
「もう今夜は貸し切りだわ。どんどん歌って」
ふだん物静かなママも一緒になって盛り上がった。
 酔った勢いと見栄もあって女の分も支払って店を出た。その時は下心はなかった。楽しかったのだ。
 


孤愁の最初へ 孤愁 0 孤愁 2 孤愁の最後へ

名前変換フォーム

変換前の名前変換後の名前