上司-5
「お誘いいただきありがとうございます」
下村沙也加はうやうやしく頭をさげた。
「礼を言われるほど大層なものじゃないよ」
あげた顔に笑顔があり、田倉もうれしくなる。
大理石をふんだんに使用した、シックな内装のレストランに二人はいる。中央にある小さなプールの柔らかな噴水の音が上品な雰囲気を演出している。水中が鮮やかな色に変化するのをしばし眺めた。
テーブルにオードブルが並ぶと田倉はワイングラスを手に取った。
「君と食事をするのは久しぶりだね」
「部長とでしたら毎日でも」
手に持ったグラスを田倉のグラスにチンと当てた。
「光栄だね。本当にそうするかもな」
「やっとわたしを誘惑してくださるのね」
戯けた仕草でニッコリとほほえむ。ほんの一瞬、グラス越しの沙也加の目が強く光った。田倉はそっと息をはく。
姿勢のいいウェイターがメイン料理を並べた。
「君は付き合っている人がいるんだったね」
ワイングラスを口に運び、沙也加を見ずに田倉は言った。
「ええ、わたしの隅々まで愛してくれる彼氏がいますわ」と、きわどい返事を返した。
「ほう、君のような美人の――」
スレンダーなボディの隅々まで、と喉元まででかかったがその言葉は呑み込んだ。
「――君のような美人を射止めるなんて、どんな彼氏かな」
「ごく普通の人です」
ワイングラスをテーブルに置きながら沙也加は答えた。
「長いの?」
「どうでしょう、二年ちょっとかしら」
「会社関係の?」
「いいえ」
沙也加はワングラスに視線を落とす。
「あしたは休日だからデートかな」
「そう、ですね」
「そりゃぁ羨ましいな」
「本当にそう思いますか?」
「ああ、もちろん思うよ」
沙也加のやや挑発的な言い方に返事がわずかに遅れた。ちょっとしつこかったか、と後悔している。
「明日はデートですが今夜は空いています」
小悪魔のような目で田倉を睨む。ギョッとした田倉の顔を見て沙也加は可笑しそうに笑った。
「おいおい、脅かすなよ」
しばらく食事に専念して会話が途絶えているとき、沙也加が唐突に言った。
「部長、恋をしているでしょう?」
「何を、言うんだね、突然」
沙也加の鋭い視線を正面から受けた。目が一瞬泳いだような気がする。沙也加が見逃すはずがない。
「最近ため息ばかり」
小首をかしげて田倉の顔を覗き込む。いつか触れてみたいと思っている髪が肩で揺れる。
そんなことは無い、と抵抗していたが、しばらくして肩の力がフッと抜けた。
「そうか、そう見えるのか……」
「恋の相手がわたしじゃないことも分かります」
田倉は弱々しく笑った。
「しかも相手は」少し間を置き「ひ、と、づ、ま」――と光沢のある爪でグラスを四回弾いた。
田倉の驚いた顔とは対照的に沙也加の表情は満足げであった。
「君にはかなわないな」
「わたしはずっと部長の秘書をしていますから。お守り役も兼ねて」
戯ける沙也加に田倉は口をへの字に曲げて首を振った。
「でも、どうして……」
「人妻って分かったか、ですね」
それは簡単ですよ、と澄ました顔で言う。
「だって相手が独身の女性なら、悩むことなんて、まずないですもの」
一瞬、頭の中が空洞になったあと、沙也加の鋭さに感心した。
「君の洞察力には脱帽だ。秘書にしておくのはもったいないよ」
「職種を軽視する言い方は部長らしくありません」
「いや、そういう意味ではないのだが……」
「分かっています」と言って、うふふと笑う。「でもボーッとしている部長って、なんだか、とってもかわいかったです」と続けた。
頬が熱くなるのを感じ、田倉は大いに照れた。