上司-3
「部長!」
小走りで近づいてきた義雄の声は裏返っていた。
「やあ、佐伯君か。奇遇だなこんな所で」
部長と呼ばれた男は、軽く右手を上げてのんきな声で答えた。
奈津子は慌てて男の胸から手を放す。
「あの、うちのが何か……」
「正面衝突をしてしまってね」
目の前の男が義雄の上役らしき人物と分かり、奈津子は口を手で覆い驚いている。
「わたしがボーッとして歩いていたのが悪いのです」
少し間を置いてから「そうか、君の奥さんか……」とかすれた声で付け加えた。
「そうでしたか、それは申し訳ありません。家内は少しのんびりしているところがありまして」
二人して頭を下げてから「うちの会社の田倉部長だ」と奈津子に紹介した。
「いつも主人が大変お世話になっております」
驚く奈津子はもう一度頭を下げた。
「そう、頭を下げんでください。君も頼むよ」
田倉は周りをそっと見回し、一緒になってペコペコと頭を下げる二人に大いに照れた。
そのとき、大柄な田倉の後ろから「パパ」とかわいらしい声の女の子が顔を出した。義雄も奈津子も女の子に全く気付かなかった。というより隠れていたのかもしれない。
「まあ、かわいい」と奈津子は屈んで女の子の髪を撫でる。
「パパのほうがおっきいから、パパがごめんなさいするんだよ」
肩まで髪を伸ばした愛くるしい顔をした女の子は、つぶらな瞳で父親を見上げる。
「もちろんさ、パパが悪いんだ」
田倉はおどける仕草で奈津子に謝った。
「娘さん、ですね」女の子の服の襟を優しい手つきで整える奈津子の問いに、「ええ、万里亜と言います。今年から年長になります」と、照れくさそうに答えた。
いつまでたってもやってこない奈津子たちに業を煮やし、目を三角にして戻ってきた恵も「かわいいっ」と奈津子の隣に屈み込み、万里亜の小さな手を優しく握る。万里亜もすっかりうち解けたふうでかわいらしい笑い声をあげていた。
「じゃ、行こうかマリ」
「あの……」
申し訳なさそうに田倉の胸元を見つめる奈津子の言葉を遮り「本当に大丈夫ですよ。気になさらないでください」と白い歯を見せる。
「バイバイ」
万里亜は父親の太い指を五本の指で握りしめ、小さな楓のような手を振った。
「僕たちのセクション、いや、社内での一番の出世頭さ。会社じゃ結構厳しいんだよ。あんな一面があったなんてな」
帰りの車の中、義雄はハンドルを握りながら顔をほころばせた。
「子煩悩そうな方ね」
柔らかな西日の光に目を細め、奈津子は前方を見つめていた。義雄は助手席の奈津子をチラッと見て口を開いた。
「やっと娘さんを授かったんだけど、そのあと奥さんとは離婚しちゃったんだ。噂じゃ田倉部長の浮気が原因らしいよ。もちろん、あくまで噂だけどさ」
「へぇー、そうなんだ。でも背が高くってなんか格好いい人よね。お母さん」
後部座席で、ねだりにねだってやっと買ってもらった洋服が入っている袋を、バサバサと音を立てて開きながら、浮気の話を聞き、唇をオーの字にして驚いている奈津子を見て、はしゃいだ声をあげた。
「あの人、お母さんが付けた口紅落とさないでそのまま帰ってったね。落ちるのかなあ。それかぁ、洗わないで取っておいたりして」
うふふ、と笑う恵に義雄はギョッとした顔を奈津子に向けた。
「バカなこと言ってないで、あらあら、袋全部開けちゃって」
恵の辛らつな言葉に平静を装い話題を変えようとするが、胸の内は穏やかではない。
田倉の逞しい胸板の感触は手のひらに残っている。「大丈夫ですから」と二の腕を優しくつかまれて支えられたとき、体がフワッとした感触も覚えている。コロンの香りと混ざった、ややツンとくる体臭も鼻腔に残っているが、決して不快なにおいではなかった。お腹に響くバスバリトンの優しい声。ハンケチを拾う手を誤って握られたとき、全身に電流のようなものが走ったのは何だったのだろう。
「夕食はなんだい?」
十数年間聞き慣れた夫の声にハッとして、知られるはずもないその手をそっと隠した。