上司-10
「そんな噂、わたしはあまり気にしていませんが、それは事実ではありませんよ。まあ、いろいろありましてね。ああ、こんな話は失礼でした」
「いいえ、そんなことはありませんわ」
奈津子の真剣な表情に田倉は笑みを浮かべた。
「若い人たちには積極的に地方へ行かせ、経験を積ませます。わたしも若い頃は各地へ行きましたが、佐伯君も何度か行きましたね」
「結婚した当初はわたしも一緒に行きましたが、恵が学校へ上がるとそれもできなくなって、少し寂しい思いをしました」
田倉は奈津子の顔をチラッと見た。
「小さい頃は恵も寂しがっていましたわ。でも毎日電話をくれましたので、それを恵は楽しみにしていて」
「佐伯君はまじめな男ですから」
面映ゆげな表情の奈津子を見てから唇から胸、腰、脚へと素早く視線を送り、沸き上がる嫉妬心をはき出すようにそっと息をはいた。
「失礼なことお伺いしてもよろしいですか?」
奈津子はためらいがちに田倉の横顔を見た。
「ええ、どうぞ、何なりと」
今度は遠慮がちにではあるが、奈津子の顔をしっかりと見つめた。唇が開かないと見えない小さなホクロが気になるせいで、視線が自然と口元にいってしまうのを必死でこらえた。
「あの、ご再婚はなさらないのでしょうか?」
田倉のギョッとした顔に奈津子はうろたえた。
「ごめんなさい。やっぱり失礼でした」
「いいえ、そんなことはありませんが、悲しいかなそのような女性がいないものですから」
「えっ、田倉さんのような素敵な男性がですか」
そう言ってから奈津子の顔が恥じらいの色に染まる。
「奥さんのような女性なら大歓迎ですが」
うつむく奈津子を見て、田倉も思わずそんな言葉を返してしまった。
「うれしい」と囁くような奈津子の声が聞こえドキッとした。お互い視線が合うとぎごちなくほほえんだ。
頭を掻きながら前方に目を向けると、二人が手をつないでこちらへ戻ってくるのが見えた。
万里亜はスキップしながら恵に話しかけている。
「周りから見たらわたしたちまるで家族ね。万里亜ちゃんはわたしの妹で田倉さんはパパ」
恵は屈み込んで「ねー」と万里亜に言っている。万里亜もピョンピョン跳びはねながら「うん」と元気に頷いている。
「今度はお母さんたちが乗ってきたら?」
恵の提案に回るコーヒーカップを見て苦笑する田倉を奈津子は困った顔で見上げた。
「ううん、あれじゃないの、ジェットコースター」
恵はそう言ってから、万里亜に「ねー」と笑顔を見せてしゃがみ込む。
「あんなのわたしは無理よ。それに田倉さんに失礼……」
「乗りませんか」
奈津子の言葉を遮り田倉は立ち上がった。
「実はああいったものは乗ったことがないんです。是非乗ってみたいな」
唖然とする奈津子を恵と万里亜が手を引いてゆく。
行列に並んでいる間「わたし、恐くてしかたがありません。ドキドキしています」「大丈夫ですから。わたしがついていますから」の押し問答が続いた。
ようやく順番がきて、田倉は今にも泣きそうな奈津子の手を取りエスコートする。柔らかい指先の感触を密かに味わった。
「さ、どうぞあちらへ」とそっと――やや思い切って――奈津子の腰に手を添えた。手のひらがどこまでものめり込んでしまうような感触に田倉はクラクラした。得体の知れぬ何者かが心の中で蠢いた。
座席に座るため奈津子が怖々と田倉の前をすり抜けていく。体臭の匂いをかぎ取ることは忘れない。腰を屈めたのでヒップがこちらに思い切り突き出された。田倉は生唾を飲みこんだ。視線が釘付けとなる。全身の血液が下半身に流れ込むのを感じ狼狽した。
初めて合ったあの日、立ち去る奈津子の後ろ姿を――魅惑的なヒップラインを――柱の影から熟視したのである。
スピードを上げた瞬間から奈津子は田倉にしがみついた。田倉は遠慮なしに奈津子の体を力強く引き寄せた。