後編-2
ある雨の夜のこと。天気のせいばかりではなく、その頃は一時の勢いが治まりかけていた。まだ九時前なのに客足が途絶えた。中根一人がカウンターで飲んでいるのを見て、小夜子は、
「先生、今夜は二人で飲みましょうか」と笑いかけた。何だか寂しそうに見えたこともある。
「もう、今夜はお客さんは来ないわ」
そんなひっそりと静まった夜であった。
引き戸を開けて往来を見渡す。雨は本降りとなって人通りはまったくない。
(こんな日もあるわ……)
暖簾を仕舞って、畳の席に簡単なセットをつくった。
「先生、こっちにどうぞ。ここからはあたしがごちそうします。お世話になったお礼。ほんの気持ち」
ひとしきり思い出話をして笑った後、急に中根が真顔になった。
「小夜子は、好きな人はいるの?」
とつぜん話が変わったので、小夜子はすぐには答えられずに苦笑いでごまかした。
「なんで、そんな……」
平石の顔が脳裏に流れていった。ふっと息をついて、
「前はいましたけど……」
それ以上は言いたくなかった。また話しても意味のないことだと思った。
「いや、同級生はだいたい結婚してるだろう?だから、どうなのかなって思って……」
女子の殆どが結婚している。早い子は小学生の子供までいる。
「そうですね……」
酒を口にして目を上げると中根がじっと見つめていた。何か言い淀むように口が動いた。
「心配してくれてるんですか?」
お酌をしながら少しおどけて言うと、中根の表情は微妙に硬くなった。そして髪をかき上げると訥々と話し始めた。
小夜子はあんまりびっくりして聞き返した。
「結婚?」
笑ったつもりはなかったのだが、思わず失笑していたようだ。
「おかしいかもしれないけど、本気なんだ。前から君が好きで……」
中根は四年ほど前に奥さんを亡くしている。
「先生は奥さまを亡くされて気持ちが弱くなっているんですよ」
「それとは関係ないんだ……」
中根はいったん言葉を切って、自分で酒を注いで一気に飲んだ。
担任をしていた時からたまらなく惚れていたという。
「中学……」
「そうなんだ。中学生に好きだなんて言えるわけがない。じっと胸にしまっておいたんだ。今までずっと……」
何と言っていいか、小夜子は言葉が見つからずに黙り込んだ。
中根はさらに胸の内を切々と語った。不純な気持ちではないこと、妻には申し訳ないと思いつつ長年抱いてきた想いであること、年甲斐もないことだが、毎日顔を見るようになって募る想いに耐えられなくなったのだと告白した。
「君が第一女子を受ける時、ぼくは反対したでしょう?あれは落ちたら東京に行くって聞いたからなんだ。遠くに行かせたくなかったんだ……」
聞きながら、小夜子は徐々に初めのうろたえが消えていくのを感じていた。
中根先生は好きだった。でもそれは慕う気持ちのそれとはちがうものだ。温厚でやさしい人柄に好感を持っていたにすぎない。
先生は五十を過ぎているだろう。互いに好きなら齢の差は関係ないとは思うが、小夜子にその気はない。ただ、この齢になって教え子に想いを打ち明けてプロポーズをした気持ちを考えると胸が痛んだ。
中根の盃に酒を満たすと、小夜子は煙草に火をつけて大きく一服した。
「先生……あたしが好きだった人、死んだの。……一緒にお店やろうって考えていたし、いずれ結婚もね……」
中根は小夜子を見つめたまま身動きしない。
「お気持ちは嬉しいけど、ごめんなさい……」
煙草を喫いながらこんな話をするなんて、何だかふてぶてしい気がしてすぐに揉み消した。
中根は溜息をつくと、何度か頷いて、
「辛いことがあったんだね。……知らなくて……」
「結婚はいまのところまったく考えていないんです。お店だってこれからだし……」
「うん。わかった。……厭な思いをさせちゃったな……」
「そんなこと、ないですよ。……びっくりしたけど」
「いい齢をしてみっともないことをしてしまった。……忘れてください」
中根は財布を取り出しながら弱々しく笑った。
「お勘定を……」
頭には白いものが目立つ。ふと、小夜子は奇妙な感情に捉われて戸惑った。哀しいような、切ないような、不安定な心になった。そして、ふわふわしたものが漂って、心のどこかに舞い降りた。