秋霖-2
翌週の休日に次兄に同行して栃木の那珂川に出かけた。
「基本の感覚を覚えるため」と、初心者の私に合わせてくれたものだ。
「流れの緩やかな瀬釣りから始めるといいよ。餌が先に流れるように軽く道糸を張って」
魚が活発に動き回る初夏ということもあって、私でも面白いように釣れて、初めての釣行は楽しいものになった。
昼に頬張った握り飯は由美子が作ってくれたものだ。
「お弁当作ろうか?」と、前の晩恵子が言った時、即座に、
「いいよ、いらない」と答えた。
「義姉さんが作ってくれるって言ってたから」
「そう。よかった。寝坊できる」
何気なく聞き流した言葉であったが、あとから思い出してみるとやや険のある調子にも感じられた。
(気に障ったかな……)
思い返すと、このところ何かと由美子の話題を口にしていたようだ。ピアノがうまいとか、落ち着きがあるとか、知的だとか……言ったかもしれない。
「あたしはピアノには向かなかったわ。すぐにやめちゃった」
実家の居間にはいまや荷物置き場となった黒いピアノが据えられてある。
「義姉さんに教わればいい。とにかく上手だから」
「聴いたことあるわ。でもいやよ。いまさらそんな気ないわ」
口を尖らせた。子供に習わせようかと言うと、少し目を剥いた。
「男の子はスポーツよ。体を鍛えなきゃ。なよなよしてるのはだめよ」
ちょっとむきになって言った。
嫉妬の感情はなかっただろうが、あまり好ましく思っていない義姉の話題が面白くなかったのかもしれない。さらに、初釣り以後、私はときおり次兄の家を訪れるようになった。
「あなたも釣りバカになっちゃうのかしら」
恵子はそれとなく不満の表情をみせたが、自分の兄に会いに行くのだから何も言えない。だが度重なると私も恵子の反応が気になってくる。顔色を窺い、言いわけがましい一言を口にしながら家を出るようになった。
「来月、ヤマメ釣りに誘われてさ。けっこう山の奥に行くらしい。いろいろ教わっておかないと」
私に後ろめたさがあったのは釣りのことより由美子の存在が心にあったからである。表向きは釣りの話だが由美子に会える嬉しさが弾んでくるのだった。
その夜は同好会で気の合う男が同席して、三人で盛り上がった。酒もすすみ、リビングは宴会場になった。
由美子は相変わらずにこにこと愛想よくキッチンと行き来していた。
「義姉さん、すみません。騒々しくて」
トイレの帰りにキッチンに顔を出すと、
「ううん。そんなことないわ。賑やかで楽しそうね。今度はどこに行くの?」
漬物を切っている横顔を見て、西洋人形のようにまつ毛が長いことに気づいた。憂いをたたえたように見える瞳はそのせいもあったのかもしれない。
由美子が腰を落ち着けたのは夕方、男が帰ってからである。
「よく飲んだわね」
「すっかりごちそうになって」
次兄はすでに限界を超えて、ソファにもたれかかったまま呂律もよく回らない。
「弱いのに。釣りが肴だと飲み過ぎちゃうんだから」
そろそろ辞去を考えていると次兄がふらふらと立ち上がった。
「俺は、寝る……」
顔が青ざめている。足元もおぼつかない。
「ちゃんと着替えしてよ」
由美子に支えられながら寝室に入っていった。
「だめだわ。そのまま寝ちゃった」
間もなく高いいびきが響いてきた。
「すごいいびき」
首を竦めて笑った笑顔がすっと消えた。
「ごちそうになりました」
頃合いと思って目を合わせる。
「まだ飲めるでしょ?最後に花梨酒飲んでみない?」
「花梨酒」
「ちょっと甘いんだけどね」
由美子はグラスを二つ持ってきて、
「健康にいいのよ」
軽くグラスを合わせた。琥珀色の美しい色で、ややとろみを感じる。まろやかで深みがあった。
室内の静寂と澱みは微かなうろたえを生んだ。二人きりでいる錯覚を起こす。
「義姉さん、疲れたでしょう」
「ううん、ぜんぜん」
グラスを見つめながら、何かを思いつめているようにも見える。
「恵子さんに何てプロポーズしたの?」
唐突な質問に私は苦笑した。
「二人の秘密かしら」
「秘密なんて……。特に言葉はなかったな」
「同級生だものね。通じ合うんでしょうね」
首をかしげているしかない。
「義姉さんの時は?」
「あたしの時も何もなかったわ。あの人、照れ屋だから。コンサートのチケットをくれてね。一緒に行かないかって。それがプロポーズみたいなものだったかしら」
その時のプログラムに先日弾いた曲が含まれていたという。
「リストの『愛の夢第三番』なの。結婚してから訊いたら、考えて選んだんだって。精一杯だったみたい」
由美子は恥ずかしそうに笑った。
「ロマンチストなんですね。義兄さんは」
「口下手なだけ。結婚したら一度もコンサートなんて行かないもの」
不満を言っている顔ではない。
「夫婦だってそれぞれ趣味も価値観も違うものね。仕方ないわ」
素直に現実を語っているように思われた。
「そう言えば、うちも共通の好みって思い当たらないな」
「感じ方でも何でも、一つでも繋がるものがあれば余分な幸せって思うくらいでいいのかもしれないわね」
「その一つが浮かばない」
「気がつかないでいるのかも……齢をとって振り返ったら意外とたくさんあったりして」
私が時計を見たのは時間を気にしたわけではないが、由美子はそれを切っ掛けに、皿に手を伸ばして片づけ始めた。私が手伝おうとすると、
「あとはいいから。恵子さんが待ってるわよ」
促され、私は由美子に腕をとられて玄関まで導かれていった。