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栗花晩景
【その他 官能小説】

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秋霖-1

 子供の成長は生活の流れを速めるような気がする。何かと手がかかることも増え、ゆっくりする時間もままならない毎日が忙しなく続くからだろうか。大声を張り上げる恵子の声が日に何度も聞こえる。

 息子が幼稚園に入った頃、恵子は二人目の子供を諦めたようで、自分から避妊を要求してきた。
「もう出来ないかなって思って……」
「まだこれからだよ。出来るよ」
「でも、変な時に出来ても困るし……」
変な時とはどういう時なのかよくわからなかったが、つまりその気が薄れてしまったということだろう。
 この頃、彼女は生来の活発さを復活させて、クラスの役員やバザーの実行委員などを次々と引き受けて生き生きとしていた。休日も母親同士誘い合ってときおりどこかに出かけたりする。そんな充実した日々に生きがいを感じ始めていたのかもしれない。出かける時は子供も一緒に連れて行くので私はのんびりと休日を過ごすことができた。

 その日もごろごろとしていると電話が鳴り、次兄から釣りの話があった。
「来週の休みにどうだ?」
以前から誘われていたのである。
「別に予定はありません。恵子も出かけることになりそうなので」
「それじゃ決まりだ。天気もよさそうだし」
次兄の釣り好きは相当のもので、商店会の釣り同好会に入っていて、主に川釣りに行っているらしい。

 彼は物静かで繊細な印象であるが、話してみると特に神経質なところはなく、とても穏やかな人柄である。長兄は何事にも積極的で豪放、酒も強く多弁であった。私は次兄に親しみを覚えていた。

「どこへ行こうか検討してるんだ。よかったらいまから来ないか?ビールでも飲みながら話そうよ」
彼は下戸で、宴会でもすぐに眠ってしまう。それなのに昼間から酒を用意して待っているということは、来いと言っているようなものだ。
 時計を見ると十一時。訪問の意を伝えると、
「じゃあ、すぐに来なよ」
きっと昼食の用意もしてくれるつもりなのだ。

 そわそわして落ち着かなくなった。すぐ近くなのに次兄の家に行くのは初めてである。煙草を喫いながら室内を歩き回った。
(由美子……)
義姉の由美子に会えるのが嬉しかった。掌に包むように密かに好意を寄せていた。

 経理を担当している彼女とはふだんあまり接触はない。ガソリン代や交通費の清算の時に口を利くくらいである。会話の機会が少ないことで却ってしっとりした魅力が日に日に蓄積されていった。
 三十七、八になるはずである。かなり若く見える。初めて会った時から私が彼女に重ねていたのは高校時代の中野美紗である。小柄で華奢な体つきは彼女を彷彿とさせる。高校の制服に似た事務服の後姿などそっくりで思わずときめいたこともあった。
 一方、あまり笑わない憂いをたたえた面立ちは逆に大人の落ち着きを感じさせて、その不均衡さが何ともいえず惹きつけるものがあった。
 恵子の兄の妻である。朝、出勤して顔を見るとほっとするような淡い想いであった。

 会社では滅多に目にすることのない由美子の笑顔が迎えてくれた。女学生みたいに愛くるしく笑いかけてくる。
(こんなに明るく笑う人なんだ……)
そのことに驚いた。

「さあ、食べてね。何もないけど」
十分な品数と手の込んだ料理である。オードブルもサラダにしても具材が豊富で見栄えもなかなかのものだ。
「すごいごちそうですね。レストランみたいだ」
「由美子はけっこう手際がいいんだ」
「手抜きですよ。味はわかりませんよ」
「俺はあまり付きあえないけど、遠慮しないで飲みなよ」

 ビールを酌み交わし、早速釣りの話が始まると、由美子は同席して微笑みを絶やさない。
「今日は恵子さん、いないんでしょう?ゆっくりしてって。主人も釣りの自慢をしたいでしょうから」
昨日たまたま恵子と出会って聞いたという。恵子は何も言わなかった。
「由美子義姉さんって、何だか暗い感じで話づらいわ」
恵子が言ったことがある。何かいさかいがあったわけではなく、とっつきにくいという意味である。
 その感覚は理解できる。だが私にはそれが魅力なのだった。静謐な面差し、時に哀しげに見える瞳の底に深い知性がじっとひそんでいるような奥ゆかしさがたまらなかった。

 その彼女が明るく笑っている。私に向かって笑いかけている。
次兄夫婦には子供がいない。いつか富田が悪酔いして、
「部長のところはやることやってないんじゃないの。聖人君子みたいに真面目くさってるし、奥さんも色気がなくて」
さすがに言い過ぎだといさめたことがある。

 由美子は名古屋出身で、次兄とは大学時代に知り合ったと聞いた。二人とも温和なところはよく似ている。たしかにこの夫婦のあられもない夜の生活は想像し難い雰囲気がある。
「義姉さんは釣りはしないんですか?」
「あたし、生きた魚が掴めないの」
「餌もだめなんだよ。山にはトイレもないしね」
「この人自分だけ夢中になって、どんどん歩いていっちゃうんだもの」
「一度だけ二人で行ったんだけど、由美子は家で音楽を聴いているほうがいいらしい」
子供の頃からピアノを習っていて、リビングには小型の家具調のピアノが置いてある。
「一曲聴きたいな」
私が言うと、義兄の顔をうかがい、
「最近弾いてないから……」
言いながらもためらわずに立ち上がった。
「由美子は一時音大を目指していたんだ」
顔を寄せて言う義兄は嬉しそうだ。

 演奏が始まり、由美子の後姿は運指によってしなやかに左右に揺れる。門外漢の私でもわかるほど本格的な技量である。流麗な調べと相まって、小柄な姿態が私を惹きつけた。小さいが形のよい尻が椅子に広がっている。気がつくとそこばかり見ていた。
 暗くなるまでしたたか飲んで、帰り際、
「時々遊びに来てね。恵子さんによろしく」
「また来ます」
「ほんとによ」
靴ベラを手渡され、ひんやりした指が触れた。


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