やわらかな光り-6
(6)
一人で酒を飲んでいると意識せずとも思考が巡る。ましてや日常から離れて温泉宿にいるとなれば過去の出来事や未来のことなど次々と脳裏にあらわれてくる。人生を見つめるなどと大袈裟なものではなく、自分しかいないのだからそうなるものなのだろう。だが、思い浮かぶことはなぜか消し去りたいことが多い。だから、
(何も考えないほうがいい……)
それでもいろいろな事々がいつの間にか押し寄せてくる。
休暇の了承を得たその日、私はそのことを千尋に伝えた。
「撮影旅行しようと思って」
「いいですね。わくわくしますね」
「秋の日差し。教わったように撮れるかな」
「好きなように撮ればいいんですよ。デジカメだからたくさん撮って、あとからまた考えてみるんです。どこへ行くんですか?」
「まだ未定。考えるのも楽しくて」
「いいなあ。旅行なんて、何年もしていない」
「季節もいいよね」
「そうですね……わたしの好きな季節」
千尋は窓外に目をやって穏やかな口元をみせた。
「ぼくも久し振りなんだ。思い切らないとなかなか腰が上がらないものだよね」
「そうですね。思い切らないと……」
「一緒に、どう?」
何気ない言葉を装ったが、思惑として持っていたことだった。私の体の中に小さな熱の塊が生まれた。
千尋は表情を変えなかった。
「わたし、いつ具合が悪くなるかわからないから……」
「……そうだね……」
苦い想いが胸に沁みたのは私自身のさもしい心に気づいたからである。その時、彼女の病のことなど念頭にはなかった。自分が恥ずかしかった。
千尋のイメージに重なる榊原玲子は初めて結婚を意識した女だった。まだ若かったから人生計画に組み入れて考えたわけではないが『遊び』で終わる女ではないと直感的に感じたといっていい。それほど輝いた印象であった。
毅然とした自己を持ち、冷静で知的で自分の考えをはっきり言う。それでいて私に対してやさしい思いやりも併せ持っている。
あとから思えばたぶんに偶像化していたようだが、その時は理想の女性として私の心を奪った。
付き合い始めて二か月後に唇を合わせた。公園の暗がりで抱きしめた。拒む動きもみせず、鳩のように従順であった。ところが私の手が胸に触れたとたん、態度が一変した。
私を押し返し、
「こういうの、いやなのよね」
初めて聞く冷たさを含んだ言い方に思わず手を離した。
「ごめん。好きだから、つい……」
「ちがうのよ。何となく進んでいく曖昧な流れが何だか引っかかるの」
言っている意味がわからなかった。
「曖昧って、ぼくが君を好きだということははっきりしてるよ。だから……」
「それは私にはわからないことだわ」
「信じてないってこと?」
「信じるとか信じないってことそのものが結局どうにでもなるわ」
「そんな考え方をしたら何も言えなくなる」
玲子はしばらく口を噤んでいたが、呟くように、
「確かなことって、行為そのものしかないんじゃない?」
「行為って?」
「セックスよ。あなたはしたいんでしょ?はっきりしているのはそれだけじゃないかしら」
私は内心たじろぎながらも、自分が否定されたようで腹が立った。
「じゃあ、行こう」
「どこへ?」
「ホテルだよ」
玲子はわずかに身を引いた。
「じゃあって、そんな気持ちで行く所なの?あなたにとってはそうなの?おかしいわ」
「愛情が確かなものになって結ばれるんだ」
「もういいわ。今日は帰りましょう」
それだけ言うと足早に歩き出した。
以後、何度か同じ話を繰り返した。彼女の真意が理解できなかった。露骨に性行為を口にしながら、いざ誘うとはぐらかすように理窟をこねる。
(怖いのだ……そして、プライド……)
初めてなのだろう。決断がつかないのだと思った。平然とセックスを口にしながら、事に及んで取り乱したりはしないか。強がってみせた分、私に侮られたりはしないか。そんな葛藤が彼女の思考を堂々めぐりにしているように思った。
ある夜、私は会うなり、
「話があるんだ」
それだけ言うと玲子の手を取って引っ張っていった。
「なによ、乱暴ね」
怒った口調にしては振りほどくこともせず、だんだん無口になって、しまいには何も喋らなくなった。
ホテル街の入り口で踏み止まろうとする玲子に向かって低い声で言った。
「ぼくは好きでもない女と寝たことがある。商売女も抱いた。愛してる女とも同じことをする。でも決めていることがある。心から愛している人とは結婚を前提として結ばれたいと。結婚するつもりで抱くんだ。確かなことだろう。それは大きな違いだ」
玲子が何も答えずに従った本心はわからない。私の勢いに圧されたのか。通りで人目に晒されるのが厭だっただけなのか。……