やわらかな光り-3
(3)
「待つんです。一瞬の光りがきらめくまで、じっと息をつめて、待つんです。状況を演出することもあります。窓辺に置いたシクラメンの鉢に霧を噴きかけ、朝の日差しが差し込むのを角度を考えて待つんです。
水滴が光りを反射する。計算はしています。ここぞと思った時、思惑の消えた感覚の瞬間に指が反応して映像が切り取られます。
撮れたかな、何を?わからない。様々な条件が重なったはず。確信がよぎっても、それがどんな結果をもたらすのか、プリントにしてみないとわかりません。デジカメでも画面だけではわかりません」
詩を朗読するように語る彼女の手には携帯電話が納まっている。
「光りと何かが関わっているところが好き」
ずっと『光り』を撮ってきたと言った。被写体は事物でも『光り』を見ているという。
「待つことが楽しみのひとつだった。でも……」
いまはもう時間がないと俯いた。
私は言葉を探した。
「誰だって、未来のことはわからない。時間の保証がないのはみんな同じじゃないかな」
言ってから、後悔した。陳腐すぎて千尋の心に響くはずはないと思った。
彼女は答えない。
「夏の輝きを撮ってみたら?」
元気づける意味を込めて言った。
「夏の日差しは強すぎるわ。やわらかさが出ない。秋の澄んだ光りが心に沁みるの。冬の陽光が好きなの。……やさしくて……」
それは信念なのか、眩しさからの逃避なのか。
季節は巡るもの。意識しすぎると視界を狭めないだろうか。
彼女は答えない。
不意に小走りになって小さな薄紫の花に向けてシャッターを切った。振り返り、
「時間を意識してはならない。時間を追ってはならない。自分にいつも言い聞かせているんです。時間がとても大切だから」
私に話しているというよりセリフを暗唱しているみたいに喋り続けた。
「時間は止まらない。特急も準急もない。誰もが同じ時の流れに乗っている。だからこそ、時間は人を振り回す。いえ、時間に振り回される。時間に囚われるのは人間だけ。自然は時間と仲良しですよね」
語尾だけは少女のように弾んだ。
真っすぐで、頑なで、それでいて愛らしい。か弱さが愛しさとなって私の内に広がった。
傾きはじめた陽が彼女の細い髪を金色に染めた時、思わず抱きよせて頬を合わせた。身を縮めたのがわかった。抵抗はなかった。
わずかな時間である。千尋の肌の匂いを胸苦しいほどに吸い込んだ。千尋は何も言わなかった。
私の行為をどのように受け止めたのか、翌日の彼女はいつもと変わらなかった。
二人で会ったのはその時一度だけである。その後、私は定年を迎え、『小部屋』へと移り、千尋とは言葉を交わす機会も少なくなった。
『小部屋』に千尋が配属されたのは思いがけないことだった。後で知ったのだが、彼女の希望によるものらしい。部内にいると心苦しいというのだった。
「わがまま言ってすみません」
「話し相手ができてよかったよ」
配属時の初々しさが脳裏に甦ってきて、私の心はしっとりと潤いに染まった。
風呂を出てロビーの片隅で煙草を喫っていると、部屋に案内してくれた仲居が通りかかり、
「まあ、大変で」
愛想笑いを見せていった。
大変で、と言ったのは、喫煙スペースの一画にいたからである。
(紀子といった……)
「夜になるとU市の夜景がきらきら光ってとてもきれいですよ」
窓の障子を開けながら展望を説明した。
「そんな遠くの灯りが見えるの?」
「はい。この季節は空気が澄んで特にはっきりと」
U市まではローカル線で小一時間ほどかかる。その小さな電車に揺られてきたのである。
「お客さん、こちらは初めてですか?」
「うん。前から一度来たいと思っていたんだ」
「そうですか。ここは信州の鎌倉といわれています」
小太りのよく動く女である。心付けを差し出すと困ったように眉間に皺を寄せて両手で押し頂いて丁寧に頭を下げた。