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やわらかな光り
【その他 官能小説】

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やわらかな光り-2

(2)


 浴場へは一階から薄暗い階段を降りて行く。立地の関係で地下にあるような錯覚を起こす。
 浴室はタイル張りでありきたりの造りであったが、湯はまとわりつくような柔らかさを感じた。泉質のことはわからない。脱衣所に効能が書いてあったが興味がないので読まなかった。

(一人旅……)
その実感に心が小さく弾む。学生時代以来のことである。湯の中に体全体が溶け込んでいくようだ。久しぶりにゆったりした気がする。
 泊り客はさほど多くはないようだ。
 季節は晩秋。紅葉の観光シーズンも終わりかけている。浴室の窓は山側になっているので見えるのは樹林ばかりである。だが、それもいい。たまには遠くを見ないのも気が休まる。
 ほとんど葉が散った紅葉、黄葉の木々。残った葉は、冬の到来をじっと待っているのか、秋にしがみついているのか。……陽が隠れて薄暮の物寂しいひっそりとした景観であった。

 急な休暇の申し出に、専務は特に何も言わなかった。もっとも旅行とは言えず、理由を考えた。
「親のことで今になっていろいろ整理することが出てきまして……」
「そう。三日間ね。わかった。なんだかんだとあるんだろうな」
 三年前に母が急逝し、昨年父が後を追った。その折り、後始末やら手続きなどで忌引き以外に何度か休暇をとった。その記憶が専務にも残っていたのだろう。
 それにしてもすんなりと了承されて内心拍子抜けであった。改めて自分の立場を思い知った。
『ちょっと急だね。仕事の流れに支障はないかね』
現役時ならそう言われたかもしれない。
(俺がいなくても何も困ることはないのだ……)
わかっていながらその時は寂しかった。

 ふと、昔、誰かが熱を帯びた口調で言った言葉が浮かんできた。
『人間、夢がなくなったらおしまいだ』
酒に酔い、若さにかまけて周囲の大人を見下した世間知らずの学生の頃である。
(自分にはもう夢と呼べるものはない……)
私は心の中で呟いた。何かをしようと踏み出す気力がない。

 手足を伸ばして天井を仰いだ。加納千尋の顔が浮かんだ。派手な明るさはないが品のある整った面立ちである。
 彼女は四月から私と同じ部屋で仕事をしている。主に案内文や対内外の文書の作成で、もともと総務部で部下だった事務員である。
(入社して十年は経つだろう……)
初めて顔を合わせた時のことはよく憶えている。

「よろしくお願いします」
丁寧に頭を下げた彼女は、ややおかっぱに似たヘアスタイルで、笑顔の中に芯の強さと純朴さを感じさせる知的な眼差しを持っていた。若いだけに瑞々しく美しい……が、
(どこか淋しげ……)
そう感じたのは根拠のない感覚的なものである。強いて言えば、若い頃付き合った女に似ていたからだったかもしれない。ぼんやりと重なった。
(榊原玲子……)
その面影が胸奥にあったから起こった心の揺らめきだったのかもしれない。

 千尋が辞表を持ってきたのは昨年の秋のことである。その時彼女が病気であることを初めて知った。
「膠原病……」
一年前に発症し、これまで何とかやってきたが、最近は指の関節が硬直してボールペンも握れなくなったと告白した。
「すみません。隠していて……」
難病という知識があるだけで詳しいことは私にはわからない。あえて訊かなかった。
「続けるのは無理か?」
「みなさんに迷惑をかけます」
完治の道が見えない病となれば説得も却って重荷を預けることになる。

 昼休みに食事に誘い、その後、公園を歩いた。話の中でカメラが趣味であることを知った。
「そんな、本格的じゃないんです」
ただ、一度、入選したことがあるという。それは誰もが知る権威ある展覧会であった。
「すごいじゃないか」
「たまたまです。でも、もう、カメラも持てなくなって……」
いまは携帯で撮っているという。
「携帯なら、何とか掌に包んで写せるんです。けっこう撮れるんですよ。性能がよくなったから」
深刻な話なのに明るく語る千尋に微かなときめきを覚えた。

「パソコンは打てるんだろう?」
「はい、前のように速くはできませんが」
「じゃあ、もう少し続けてみたら?」
「でも……」
事務能力は惜しむべきものがある。辞めれば一人暮らしは出来ないので福島の実家に帰るという。
(そばにおいておきたい……)
思惑を秘めてのことではないが、仄かな想いはあった。
 上司に事情を話し、あくまでも彼女の能力を推して、了解を得たのは千尋の思い望むことだったのかはわからない。仕事の内容を限定して無理のない業務にする計らいを伝えると、その瞳には困惑の色が浮かんだように見えた。
「体調が悪かったら無理しないでいい。もう少し頑張ってみないか」
「ありがとうございます。でも、いいんでしょうか……」
「君の能力が必要なんだよ。だから……」
「嬉しいです……」
俯いた頬に涙が光った。
「今度、写真の撮り方を教えてくれないか?話を聞いてて撮ってみたくなったよ」
「教えるなんて……」
「ぼくにも撮れるかな」
「撮れますよ」
恩を着せた形になったのかもしれない。『写真』を口実に誘い、冬晴れの休日、体の負担を理由にして車で郊外の自然公園へ出かけた。
 


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