前編U-26
駅からの道を走り詰めで、喉は渇くし、膝はガクガクだ──そうして美那は再び、「アイ・オフィス」の入る雑居ビルの前にやって来た。
だが──。
「ここまで来たけど……」
そこから足が進まない、身体が動か無い。此処までの道程で様々な事が去来し、どう話を切り出そうかと考える内に、辿り着いてしまった。
考えは纏まっていないが、やるべき事は解っている。そのつもりで前へ踏み出そうとするのに、何故か身体が拒絶する。
「どうしようか……」
ビルの前で、立ち往生する美那。すると、それを見ていた男がいた。
「すいません」
男は美那に声を掛けた。
「この辺りに有る、松嶋恭一さんの探偵事務所をご存知無いでしょうか?」
「えっ?」
見知らぬ男が恭一に会いたいと言う意外性に、美那は驚きながらも相貌を見た。
浅黒い顔と短く纏めた髪。四十代とおぼしき男性で、丁寧な言葉遣いときちんとした身なりは、それなりの社会的地位を感じさせた。
だが、眼だけは誤魔化しようがない。その、人を射る様な眼差しが一般人で無いと、美那に語っていた。
「な、何ですか、貴方は?け、警察呼びますよ」
精一杯の正義感で向かって行く美那。彼女なりに“恭一を守らねば”と言う意志の顕れだった。
だが、男は動じない。こう言う場面に馴れているようだ。
「これは失礼……」
男はそう言うと、徐に背広の内側に手を入れた。
その瞬間、美那は凍り付く。
──殺される!
美那は悲鳴を挙げ、頭を抱えてしゃがみ込んだ。
しかし、男が取り出したのは小さな手帳だった。
「申し遅れました。私、〇〇県警の島崎と申します」
「へっ!?」
美那の前に掲げられたのは、警察手帳であった。
「け、警察の人!?」
「すいません。“その筋の人間”に、度々間違われます」
にっこり笑う島崎を見て、美那はその場にへたり込んでしまった。
慌てて島崎が引き起こそうとするが、足に力が入らず、上手く立ち上がれ無い。
「その警察の方が、事務所に何の用ですか!」
勘違いとは言え、怖い目に遭わされた事が腹立たしく、美那はつい、ぞんざいな態度を採るが、島崎はその反応にも馴れているかの様に、優しく美那に訊き返した。
「失礼ですが貴女は?松嶋さんのお知り合いですか」
「私は、松嶋の助手です」
美那は躊躇いもせず、胸を張って即答する。
「……貴女が?」
島崎の怪訝に満ちた眼が、美那を捉えた。