母娘指南-1
ある夜、
「お母さん……あたし……」
一人娘の早紀が部屋からリビングにやってくると消え入るような声で言った。テレビを観ていた佳代は何気なく振り向いて胸にかすかな圧迫を感じた。
(どうしたのかしら?)
早紀の表情がいままで見たこともない沈痛な面持ちだったのである。食事をしている時にも元気がないとは思ったが、特に気にもとめずにいた。
子供の頃から真面目な子で、やや引っ込み思案なので人の先頭に立つことは好まないが、心根が優しいので友人も多く、わが娘ながら素直に育ってくれたと佳代は喜んでいた。
十年前、早紀が中学三年の時に夫が交通事故で突然他界した。佳代が三十五歳の年である。
ショックのあまり何も手につかない毎日が続き、納骨を済ませた後、張っていた気が抜けて一日横になっていたことがあった。夕方、早紀が帰宅した物音がしてもごろごろしていると、しばらくして制服姿の早紀が寝室にやってきた。お盆に載せて持ってきたのはおかゆである。
目覚めたように佳代は起き上がった。
(ずっとこの子がそばにいたんだ)
いまさらながらに気づいて胸が痛んだ。自分のことしか考えていなかったことが情けなかった。
(悲しいのはこの子も同じだ……)
いや、多感な年頃を考えたら母親である自分がしっかりしなくてはいけないのに、何をしていたのだろう。
物事を冷静に捉え、甘えることなく自分に寄り添ってくれていた十五歳の娘に佳代は心の中で頭を下げた。
それから母娘二人でなんとかやってきた。早紀は中高一貫の女子高から女子大を出て、就職も一流企業にすんなり決まった。成績はいつもトップクラス。勉強について意見をしたことは一度もない。
(この子、たいしたものだわ……)
佳代は内心誇らしく思ったものである。
毎日が順調に流れていく中、二年ほどして佳代がふと不安を覚えたのは母親としての想いでもあり、また自らを振り返って、娘に重ね合わせた女の性といってもいいかもしれない。
(もうすぐ二十四になる……)
ぼんやり考えた時、そこに異性の影がないことに気づいた。
佳代自身は十九で初体験してその相手と結婚。二十歳で早紀を産んだ。昨今の風潮をみれば、いわゆる適齢期などあってないようなもので、二十四で結婚の話がなくても心配することではない。佳代の懸念は早紀の心の成長、在り方にあった。
(まさか男性に興味がないなんてことは?……)
誰かと交際したことなどおそらくないだろう。規則正しい生活を思い起こせばありえないと思う。ならば特定の相手に想いを寄せたことは?……それは窺い知ることはできないが、少なくとも好みのタレントがいるのかさえ聞いたことがない。
共学校だったら否応なく男子と接触があったろうに、ずっと女子校だった。免疫がないことで異性を遠ざけているのだとしたら問題である。
だが、ほどなくそれらは杞憂となった。
「付き合っている人がいるの」
ちょっと恥ずかしそうに言った早紀の微笑みを見て、佳代は一気に心の霧が晴れた。
翌週には、同期で生産管理をしているという中田守を紹介された。線は細い印象だが、いかにも生真面目そうで目が優しかった。
(早紀が選びそうな人だわ……よかった……)
月に一度は三人で食事をするようになった。
(もうだいじょうぶだわ)
二人の仲のよさを確信したものである。