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『詠子の恋』
【スポーツ 官能小説】

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『詠子の恋』-16

(あ、そうだ。せっかくだから…)
 そこで詠子は、前に吉川が言ってくれた“力仕事が必要なときは、遠慮なく言ってね”の言葉通り、ひとつ頼みごとをすることにした。それは、自分の部屋に吉川を呼ぶ、口実にもできる。
「本棚が壊れちゃって、それで、廃品に廻したいの」
「お安い御用だよ」
 詠子の借りているアパートメントは、粗大ゴミ回収用の小屋がある。ただ、闇雲に捨てられるのを避けるため、部屋番号を記したカードを必ず付記しておかなければならないルールもあった。それもあってか、この小屋に物が捨てられていることは、あまりない。
「すごい本の数だね」
 翌日、初めて詠子の部屋を訪れた吉川は、三方に居並ぶ本棚に収められた蔵書を見て、感嘆していた。古典小説、現代小説、歴史小説、児童小説、海外小説、剣戟小説、官能小説…それぞれのジャンルが、所狭しと並べられていて、その背表紙のタイトルを、興味深げに吉川は眺めていた。
「それじゃ、こいつを運べばいいんだね」
「気をつけて。小屋の入口に、カードがあるから、そこに“207”って記入しておいてね」
「わかったよ」
 しばらくして、片隅で半壊していた本棚を、吉川は抱えて小屋まで運んでいった。その間に、詠子は、コーヒーを入れるためのドリップを用意して、彼が来るのを待つことにした。
(………)
 市営球場で一緒に試合を見ると言う“デート”の誘いばかりか、自分の部屋まで吉川を連れてきた。赤いフレームの眼鏡が示すように、最近の自分は本当に“アクティブ”になっている。好きな人ができると、こんなにも、自分の行動は変わるものなのかと、我が事ながら驚き呆れる詠子であった。
「行ってきたよ」
「ありがとう」
 吉川が部屋に戻ってきたので、ドリップしてあったコーヒーをカップに移して、彼に振舞った。
「おいしいコーヒーだね」
「わたしのお気に入りの、喫茶店で挽いてもらってるの」
「そうなんだ」
 ここで、“今度、一緒に行ってもいい?”と、切り出してこないのが、吉川の鈍感なところである。それを少し期待した詠子だが、自分の淹れたコーヒーを、純朴な雰囲気そのままに、美味しそうに口にしている吉川を見ていると、己の貪欲さがなんだか醜い気がして、詠子はコーヒーカップに静かに口をつけるしかできなくなった。
 しばらく、野球を中心とした取り留めのない話で時間を過ごし、今日の目的である市営球場に二人は連れ立って出発した。何度も言うが、明らかに付き合っているようにしか見えないこの二人は、まだ“彼氏彼女”の関係ではない。
(吉川クンは、わたしのこと、どう思ってるのかな……)
 敏い者であれば、詠子のアプローチをすぐに察して、何らかの行動に移るであろうが、なにしろ相手は、純朴にして鈍感な吉川である。おそらく、詠子の行動の裏側にある淡い意思に、気がついていない可能性が高い。
 そう考えると、少し、気持ちが沈んでしまう詠子であった。


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