第３章-2
「どうですか、先生。やはり他殺ですか」
あやかが声をかけると、
「そうですね。絞殺による窒息死です。死亡推定時刻は今朝の午前二時から四時といったところでしょう」
と白衣の男は答えた。しかし祐志は首を傾げた。午前二時から四時と言えば、祐志が利佳の首に腕を巻いたまま熟睡していた頃だ。そして六時過ぎに目覚め、その時はまだ確かに利佳は生きていた。
「私はもう少し休憩してから学校に行くわ」
と言って、防衛省に出勤する祐志を笑顔で見送ってくれたのではなかったか。
「また被害者の膣内から男性の精液が検出されました」
白衣の男は付け加える。
「では、その精液をDNA鑑定すれば被疑者は特定できるわけですね」
あやかは言った。そして祐志の方に向き直り、
「北岡さん、この件、警察に通報しましょうか。DNA鑑定をお受けになる覚悟はありますか」
祐志はウッと声を詰まらせた。
この白衣の男、医師の格好はしているが、どうせ偽医師だろう。死亡推定時刻の午前二時から四時というのもでたらめに違いない。
精液のことから警察も最初は祐志に嫌疑を持つかも知れない。が、きちんと死亡推定時刻を鑑定してもらえれば疑いは晴れよう。利佳が殺されたのは、明らかに祐志と別れた後なのだから。そしてそこから中央線でまっすぐに出勤した祐志にはアリバイがある。
しかし殺人事件の捜査の過程で児童買春の件も明るみに出る。そちらの方で祐志は逮捕され、そして懲戒免職となるだろう。社会的にも一大スキャンダルとなる。それだけはどうしても避けたいところだった。
「北岡さん、もしご希望でしたら、利佳の死体は私どもの方で処分してさしあげてもよろしいですのよ」
「えっ？」
「この一件を闇に葬ってあげようと申しているのです」
「そんなこと、できるんですか」
「はい、できます。川野利佳は永遠に行方知れずということで終わるでしょう。ただ、それには一つ条件があります」
「条件、と言いますと？」
「ラグナロク作戦の詳細と交換ということでいかがかしら」
「えっ？」
祐志はそれこそ声も出ないほどに驚いた。
ラグナロク作戦とは、東シナ海での有事を想定して、日米合同で極秘で策定した軍事作戦計画のことである。これは防衛省内でも極秘中の極秘で、統合幕僚監部の上層部と当該部隊の上層部にしか知らされていなかった。戦略部作戦課にいる祐志でさえ、作戦の名称とおおまかな概要くらいしか知らなかった。それをどうして民間人の久野あやかが知っているのだろうか。
「あなたはいったい何者なんですか」
「よけいな詮索はなさらない方が身のためですわよ」
ラグナロク作戦を一番知りたがっているのは、中南海すなわち中国政府であろう。だとすれば久野あやかは中南海の回し者なのか。
「久野さん、残念ながらラグナロク作戦については私もよく知らないのです」
「そうでしょうね。三佐程度で全容を詳しく知っているとは私も思いません。でも、作戦課のコンピュータからなら、統幕監部のメインコンピュータに簡単にアクセスできるんじゃなくって？」
「それは、まあ」
「そこからラグナロク作戦の全容詳細をこのUSBメモリに落としてきてほしいの」
あやかは一個のUSBメモリを祐志の前に差し出した。しかし祐志はそれを受け取らなかった。
「私は自衛官です。そんなこと、できるはずがありません」
「そうですか。では仕方ありませんね。あなたを児童買春と殺人の容疑で警察に告発しましょう」
「ちょ、ちょっと待ってください」
祐志はしばし思案した。しかしあやかはその結論を待たずに、祐志の上着のポケットにUSBメモリをそっと忍び込ませた。
「次の日曜日、十一月二十日の午後一時に、そのUSBメモリにラグナロク作戦をダウンロードして、再びこの館に持って来てください。それまで利佳の死体は保留にしておきましょう。あなたの人生を左右する大事な選択ですから、くれぐれも判断ミスをなさらないように」
「ううむ」
祐志はきっぱりとは断りきれず、イエスともノーとも言えないまま、あやかから渡されたUSBメモリを持って、相模湖のほとりに建つ洋館を後にした。