『秘館物語』第2話「訪問者」-14
「確かに、風景画の範疇からは随分と離れている。しかし、これは紛れもなく“絵”だよ」
「父さん……」
かつて“写真”と言われた自分の描いたものが、“絵”だと認められた。勝手に持ち出されたことへの不信を完全に払うほど、浩志はその言葉が嬉しかった。
「浩志。また、スケッチをいろいろ見せて欲しい」
「あ、うん。せっかくだから、今持ってくるよ」
「そうか。頼む」
浩志は再び、部屋を後にした。
その背を視線で追いかけながら、兵太は我知らず抱いていた緊張を解いた。
「はは。坊ちゃんも、なかなか“欲”が強いですわ」
「そうだな」
“碧が持ってきたもの”ということに対して、浩志が明らかな不快の感情を抱いたことは、既に二人は気が付いていた。それはつまり、碧を誰にも渡すまいとする、彼自身の強い我欲が発露したと言うことだ。
「私の息子だ。そうでなくてはならん」
そして、そんな浩志に対して志郎が満足そうな頷きを何度も繰り返したとき、兵太は芸術家が持つ“業の強さ”というものが、一筋縄なものではないことを改めて思い知ったのであった。
「ふぅ…」
思いがけず浩志の絵の品評会となった三人での集まり。それが一段落したところで、兵太は供された部屋にひとまず落ち着いた。
部屋には双海がいた。ひとりで、本を読んでいたようだ。綺麗なカバーがかけられている文庫サイズのそれを、彼女は静かに開いていた。
「双海、すまんかったな。長いこと、ひとりにしてもうて」
二人きりの時間を過ごす、という主題を早速放り投げたようなものだ。しかし、双海は穏やかな微笑を浮かべたまま、優しくその首を振った。
「絵の話で、随分もりあがったんや。でも、ワイ、途中からチンプンカンプンになってもうて。ついてくのがやっとやったわ。情けないのぅ」
絵画の話は、やはり兵太にとっては遠いものだ。どうしても理解の及ばないところもある。
「坊ちゃん、風景画ばっかり描いとるみたいやけど…。昔みたいに人物画は、ようせんのかなぁ」
浩志が人物画に秀でているのは、兵太もよく知っている。しかし、今日見せてもらった彼のスケッチは、その全てがこの周囲の風景を写したもので、その背景の中にさえも、“人間”はひとりとして入っていなかった。
「でも、やで」
「?」
「あの花は、凄かった」
「花?」
「そうや」
兵太の印象に残ったものがひとつあった。風景画の中に無数に咲いている、花々の佇まいである。
「なんともいえん、淫靡なもんがあった……」
「まぁ」
双海の頬が少しだけ紅くなった。“花”と“淫靡”という単語が並ぶと、彼女は職業柄、どうしても色艶のある光景を思い浮かべてしまう。
「双海、こっちこんか?」
「あ…。はい…」
そんな彼女の空気に、兵太は反応した。自分が腰をおろしているベッドの隣に、彼女を招いたのは、自分にとってかけがえのない“花”である双海を感じたくなったからだ。
「双海…」
隣に腰を下ろすや、その肩に手を廻して、兵太は双海を腕の中に抱きしめた。たちまち、彼女の身体から立ち上る甘い香りが、鼻腔をいっぱいにする。
「ええ匂いや」
「………」
腕の中で双海は、恥らう様子を見せた。なにしろ夏の盛りであり、ふとしたことで汗ばむ身体は、すぐに香気をまとってしまう。
だがそれを愉しむように、兵太は髪を優しく梳りながら、何度も接吻をしてきた。花の香りを、味わうように…。